倉田比羽子「贅沢な<ruby><rb>記憶</rb><rt>ことば</rt></ruby>の集積 ― 詩のことばが生き延びる場所」

著者 倉田比羽子
タイトル 贅沢な<ruby><rb>記憶</rb><rp>《</rp><rt>ことば</rt><rp>》</rp></ruby>の集積 ― 詩のことばが生き延びる場所
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 35回[2020年]
分野 詩部門 分類 選評

  戦慄的かつ啓示にみち、不穏な気配がただよう『どうぶつの修復』を読み解こうなどという途方もないことを考えていると、極致の果ての詩の神髄に引きこまれていることに気づかされる。目覚ましい意識の絵はスリリングで、平生を喝破してくれる。そこは「詩は思想では書かない、感情では書かない、手で書く」といった吉本隆明のことばにかさなる通路である。同時に詩は「有用なものか」という疑いが頭を擡げる。これは詩にかぎったことではない、表現全般に通じる問いであり、社会的な生産性、経済効果、効率性にとってはもっとも不向きなものといえそうだ。とすれば詩人は意識と無意識の閾を跳梁する深淵な空間の「修復」(抵抗、救済、延命)を比喩的、象徴的、構造的によび覚ましているのではないか。もとよりわたしたちはことばをためこんだ物語を身に纏って生きている。慣習化され一律の意味に従順な日常のことばから身を剝がして、人間の価値体系や秩序が持ちこまれる以前の深層意識の根源におりてゆくと、固有の生の領域をこえたおそろしく寄る辺ない空虚のただなかにさらされる。この境域に原-言語たる潜在的な詩のことばは無=意味のままうずくまっているにちがいない。黒々としたことばの塊はわたしたちの身体の行動能力をこえてなにをひらくのか、どのようなはたらき(リアリティ)を目論んで、表層意識の世界に入りこみうるのかと。記憶の海をさまよい、ことばという触手の極みに誘われて、なにがはじまるのかわからないままにわからなさそのものとして、眩惑とともに意識の深みへ追いやられる。そのうち覚えなく詩のことばはすべてがあるがままあるように、どこでもないところから理を通して生き延びる場所をひらき、名づけようもない(分類不能)自由の きわ に照らしだされる。おそらく原初的混沌の原-言語と直接的関係が結ばれたときにはじめて詩人の発語は詩(原-韻文)として想起され跳躍しはじめるのだろう。『どうぶつの修復』は人間と言語との関わりに収斂した究極のフィクションとしての潜在的記憶の現働化への試みともいえる。
  廃墟を往還する謎めいた無数の人格、モノ、コトの名がブリューゲルの絵のように登場し、緊張感と拡散性を織りなし、いくつもの動機がひしめき入り交じり溶けこんで、ときにつながり集中し、断絶し、多様な環世界喪失後のわれらが 故郷 ハイマート の相貌をあらわにする。そこは危機をはらんだ生成のカオス状態。さらにもの言いたげに正体知れぬ虚空の「余白」の晴れやかさに気づく、「余白」にはなにごともすでに書き尽くされ沈みこんでしまったのか、それとも原初にして終極の宇宙的球体となっていまなお漂っているのだろうか。詩人は覚醒を生きつづける「修復師」に未来からの視点を託す。「修復師」とは永遠の相から往還をめざす慈悲のまなざしにほかならない。「修復師」が修復しようとしているのは置き去りにされた世界の構造、 ホーム 故郷 ハイマート であり、疑わしくもまた忘れ去られてゆく詩を意識のなかに導き入れるために「無意識を伝える使者」(ベルクソン)となって真生なる世界の源泉に佇んでいるようだ。

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