著者 | 星野高士 | ||
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タイトル | 華やかな師系 | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 34回[2019年] |
分野 | 俳句部門 | 分類 | 選評 |
以前に三村純也さんが富山県の洗足学園魚津短期大学で教鞭を執っていた頃に春の季題の蜃気楼を見たくて行ったことがある。結局その日は見れなかったが帰ろうとした日にかすかな蜃気楼が出てくれたのであった。
その時もずっと一緒に居てくれていろいろと案内してくれたのも三村さんであった。
考えてみると大阪と鎌倉に住んで居ながらそんな遠い存在と思ったことは不思議に一度もない。
俳人はみんな師系という力強いものと脆さをもったものが背景にあるが三村さんも私も辿って行くと同門ということにもなるだろう。
しかし下村非文と清崎敏郎と言う類い稀な師に出会い俳句の現場を共にしてきたことはこの句集『一(はじめ)』の隅々に行き渡っているのがよくわかる。
そして何より虚子、年尾、汀子と言った『ホトトギス』の血も彼なりに呑み込み乍ら自分のものを打ち出していることもこの句集の幅の広い内容になったと言っても過言ではないであろう。
また国文学、民俗学などの知識も一句一句の土台をしっかりと踏まえているがそれは表には見えないところも粋な配慮であると私は思っている。
やはらかく水暮れてゆくえごの花
目の前の花まなうらの花明り
の様に一見親しみ易く思う句であるが、この句に行く迄の到達点は計り知れないものがあるのだろう。えごの花の句は大串さんも私も推したもの。
三村さんがそれだけ力の抜き方をよく知っている証しと言ってもよいであろう。
師でもあった清崎敏郎の純な客観写生の技を彼なりに昇華させているからこその作品でもあるのだ。
春障子中途半端に開けてあり
さくらんぼ一つ多いだの少ないだの
の遊び心もこの短かい文学の中にうまく省略されていて読後感は頗るよい。
けっして難かしいことは言ってないのがこの句集の俳句達であるがどこかに品が漂っているのも捨て難いところ。
東の俳句西の俳句と区別はしたくないが両方の息吹を持っているのも彼の強いところである。
また俳句の持っている滑稽味は昨今忘れ勝ちであるがこの句集には無理なくちりばめているのも味付けとなっている。
祭鱧食はねばならず食ひにけり
鳥の巣のこんな低さに何でまた
そして三村さんと言えば能と落語。
本当はそっちの方にも進みたかったとか。
二日灸据ゑて代々能役者
くノ一の密書なるべし落し文
いろんな場面やいろんな状況に於いても作品に仕上げられているところもこの『一(はじめ)』の特徴であった。
蝮酒飲むためにまづ酔ひにけり
注ぐたびに動くを怖れ蝮酒
力がないと詠えない酒の句も楽しく読めたのも至福の時間であった。
師系の大事さも改めて思わせてくれ『一(はじめ)』まことにおめでとう。