著者 | 三枝浩樹 | ||
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タイトル | 木を見、森を見る歌-72年目の短歌 | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 34回[2019年] |
分野 | 短歌部門 | 分類 | 選評 |
敗戦から数年の間に相次いで出た短歌否定論。臼井吉見の「短歌への訣別」、桑原武夫の「第二芸術」、小野十三郎「奴隷の韻律」。これらの論に作品をもって応える。それが歌人の側からの最もよき回答になろう。小島ゆかり『六六魚』に注目したゆえんでもある。
小島ゆかりさんの歌には難渋なところがほとんどない。親しみやすく味わいやすい。だから多くの支持を得ている。言い換えれば、平明である。平明であるが非凡でもあって、そこが小島さんの歌の魅力である。
下の子はけふ母になり とほざかる風景のなか夏の雨ふる
この夏の或る日よりわれは祖母になり祖母といふものは巾着に似る
下の娘が母になった、つまり孫が生まれ、祖母になったのである。程よい距離感をもって母となったわが子を讃え、暮らしてきた時間を懐かしく思い起こしている。ひとつを得ることはひとつを失うことでもあって、母となる喜びは母となる哀しみを引き受けることでもあると、わが子にエールを送っている。静かなオメデトウの歌である。小島さんは比喩の卓抜な使い手で、二首目の「祖母といふものは巾着に似る」にもその特色が窺える。
おそなつの雨後なほ暑しゆふぞらをわしづかみして鴉飛びたり
中年と老年の境いつならんいちじくいろの雨後のゆふやみ
小島さんは表現の造形力が豊かであることも、特色に挙げられる。残暑の雨後の夕空を「わしづかみして鴉飛びたり」と表し、中年と老年の境とはいつなのだろうと問いつつ、その心境を「いちじくいろの雨後のゆふやみ」という斬新な比喩を用いて造形化する。
私とは何者か。生きるってどういうことなのか。この悩ましい問いにも小島さんは応えている。遠近法、パースペクティブを備えた伸びやかな視野をもって応えている。
うさんくさき自分に気づくいついかなるときも真顔の猫と暮らせば
家にても遠くありてもわれはわが
見つめ合ふうち入れ替はることあるをふたりのみ知り猫と暮らせる
ただならぬえにしおもへどおほかたは寝て暮らすただの古猫、彼は
猫の歌である。でも猫は自分を映す格好の鏡となっていることを、長年の付き合いの中で知る。「いついかなるときも真顔の猫」の前では「うさんくさき自分」に気付かざるを得なくなる。古猫の存在感の前では自分は見つめる者ではなく、見つめられる者になる。主体ではなく、客体としての自分を知り、しかも主客が入れ替わる瞬間すら感受する。短歌の魅力を味到できる歌集である。
ときどきはもんしろ蝶も出入りする文房具店だれかゐますか
飯舘村、浪江・川俣・富岡町、避難解除す 東京は雨
亀を乗せ石やはらかく濡れてをり未生・生前・死後の夏あり