吉田文憲「したたかな切り返し」

著者 吉田文憲
タイトル したたかな切り返し
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 34回[2019年]
分野 詩部門 分類 選評

  詩篇「抜けてくる」の、末尾の一行、「壊れながら、抜けてくる」に震撼させられた。ここで「壊れながら、抜けてくる」のは何か、誰か。むろん、ここでは、主体は「人」である。だが、そうか。詩篇には「木でつくられた人型を通る」と書かれている。「人」であって、半ば〝人ならざるもの〟「人型」をしたものが、「壊れながら、抜けてくる」のである。詩篇は、それが我々の、今生きている姿ではないか、とまで言いかけている。こう書くと、全くネガティヴなようだが、この詩篇の粘り強いところは、その「壊れながら、抜けてくる」「人」の姿を、むしろ強く肯定しようとするところにある。「人」はみな半ば「壊れ」ているし、それでもその世界との関係性をどうにか「壊れながら」も「抜けてくる」、すなわちどうにか生きているのだ。そのような「壊れながら」生きている「人」の姿をここでは強く励 ましているように見える。それは自らの生きる姿を励ます声でもあるのだろう。
  表題作「軸足をずらす」には、「いい人だと思われなくてもいい/いつの間にかこの世にいたが/どこかに軸足をずらす/さみしい方へ傾斜するのだ」という印象的な詩句がある。人は、あるとき、ふっと目覚めたように、「いつの間にかこの世にいた」と思うことはないだろうか。いつの間にか、気が付いたら「この世にいた」。これは〝私〟の存在にかかわる恐ろしいような問いである。ある意味でこれは誰にも答えられない問いである。問いの先には理不尽な〝空白〟が拡がっている。その答えられない〝空白〟に耐えきれなくなって、人は「どこかに軸足をずらす」。それを詩人はさらに「さみしい方へ傾斜するのだ」と言い直す。詩は、あるいは詩の抒情は、この言い直した詩句の方に発生しているともいえる。言葉をもった人間という存在の〝さみしさ〟。けれど、この詩篇はその〝さみしさ〟の場所に蹲らない。逆に「にんげんが逆さに立っている野原まで」「負けないで通り過ぎ」(「極上の秋」)ようとする。ここにも、さきの〝人ならざるもの〟、「人型」をしたものの姿がある。「ことばはあなたには届かない/すべてのあなたたちには届かない/だからといって/生きていけないわけはない」(「夜をわたる」)。こうしたたかに切り返す強さが、この詩人にはあるのだ。詩人は、極端から極端へ、目盛りが振れることをキラう。むしろそこでわずかに「軸足をずらす」には、繊細な叡知のようなものが要求されるだろう。「詩」は、その叡知に宿り続けているともいえる。
「みっともないことも少ししたが/ことばでもからだでもないところが/すばらしい速度で/成長している」(「生きやすい路線」)。「ことばでもからだでもないところ」とは、どこか。それはおそらく「詩」でしか探り得ない未知の領域を示唆している。詩人はそこに「新しい一ページを開こうとしている」。未知の詩を書く試みがそこで為されようとしているのだ。

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