高野ムツオ「万物の命を摑む力」

著者 高野ムツオ
タイトル 万物の命を摑む力
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 33回[2018年]
分野 俳句部門 分類 選評

  岩淵喜代子には、万物の命の不思議さを、その不思議さのまま、さまざまな形で言葉に映し出して見せる力がある。
    穀象に或る日母船のやうな影
  本集の題名となった句だが、穀象という名のわずか数ミリの虫を見守る眼差しにも、それが感じられる。〈穀象の群を天より見るごとく〉は西東三鬼だが、ぞろぞろとのろのろと歩く無数の穀象が巨人の視線から俯瞰されている。穀象とは姿態が象に似ているから生まれた名である。象とは比べものにならない矮小な存在。しかも、人間の穀物を食い荒らす害虫として忌み嫌われる。三鬼は、その命運を冷厳に凝視している。救い難い衆生のうごめくさまを残らず捉える閻魔の眼である。虚無的な冷笑をさえ含んでいる。
  岩淵喜代子は、その穀象にも「母船のやうな影」が被さる日があるという。穀象一匹一匹が大海を漂う小さな船であるとするなら、それらを導く母なる船がやってくる日があるということだ。それは天の鳥船でもノアの方舟でもない。喩えるなら菩薩の化身の船であろう。火宅を生きる穀象への作者の慈しみが引き寄せた影である。諧謔味が漂うが、それも慈愛から生まれたものである。
    生きてゐるかぎりの手足山椒魚
  クローズアップされた手足が見える。オオサンショウウオでもいいが、どこにでも棲息している小さなものを想像したい。別名はんざき。体を裂かれても生き延びることから生まれた名だが、誇張でもあろう。しかし、事実、手足は切断されても再生する。これも生きるための必死が生んだ奇跡だ。その手足を踏ん張って、今という時間を生きている命のありようが、正確無比に言い止められている。
    水着から手足の伸びてゐる午睡
    帰省して己が手足を弄ぶ
  こちらは人間の手足。再生するはずがないのだが、午睡の手足は、脱がれ干されていた水着から今伸びてきたばかりのように若々しい。そう見えるのは、作者の手練にまんまと騙されてしまっているからだろう。超現実的トロンプ・ルイユ。帰省子の手足も同じだ。まるで故郷に置き忘れた手足を懐かしみいとおしんでいるかのようだ。
    みしみしと夕顔の花ひらきけり
  夕顔に骨があって、それが軋んでいるのではないかと錯覚する。夕顔が渾身で生きる女人にも見え出し、一瞬眼をこすっている自分がいる。
    ぎしぎしの花にも葉にも雨強し
    一斉に二百十日の箸を持つ
    曼珠沙華八方破れに生きるべし
    飛花落花そのひとひらの赤ん坊
  万象のありようは無限である。その無限を、自分の文体をもって表現するのが俳句だと、これらの句は教えてもいる。根底には、万象とは何か、生涯かけて言葉で摑み取ろうとする岩淵喜代子の暗い執念の炎が燃え続けているのだ。句集『穀象』はその途中だが、しかし、現代俳句にとってかけがえのない大きな収穫なのである。
 

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