清岡卓行「開かれた詩へ」

著者 清岡卓行
タイトル 開かれた詩へ
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 8回[1993年]
分野 詩部門 分類 選評

  大岡信は『地上楽園の午後』において、長い年月にわたるさまざまな詩作ののち、開かれた詩への方向をひときわ強めたように見える。それはわかりやすくいい詩の方向へということになるが、彼の場合手つづきは複雑だろう。これまた長い年月にわたって文学・芸術のいろいろなジャンルで鍛えあげてきた批評が、そうした展開のための独自な媒介となっているように感じられる。
  彼は胸の奥から詩的なマグマを表出するとき、たいていの場合は、それを一作ごとに新しくした批評のフィルターに濾過させて、外部の現実と嚙み合う緊張を持続させ、他人にまで広く深く通じる言葉の作品を造型しようとしている。
  詩集の作品二、三篇は批評の媒介が不必要なほど素朴で抒情的だが、ほかの二十数篇にはそれぞれ細心の知的な意匠がある。
  彼自身、この詩集の「あとがき」で、「結局のところ何ものかへの/心潜めた呼びかけでなければ、/詩である必要もない」と、こうした制作の方向に見合った意識を語っている。
  したがって、彼におけるこの開かれた詩への方向は、閉じられた詩への方向の一種袋小路ふうの雰囲気をもたない。少し詳しくいいなおせば、彼は自分の詩のマグマを固定したなんらかの比喩の構造のなかにのめり込ませて、その枠内で審美的な独善の技術に耽り、外部の現実と嚙み合う緊張の持続を忘れるといった愚かなまねはしない。こうした偏りにもとづく抒情の渋滞や論理の混迷とももちろん無縁である。
  私はこの詩集のなかでたとえば最後に置かれた詩篇「優しい威厳」に心を打たれた。
  そこでは、岩石のうえに根をおろし、日光や風雨や海鳥のもとに育つ双葉のきびしい現実への優しい注目が、不遇な境遇にある人間の爽やかな自立への慈しみと敬意に、やがて密かに重なってくるように感じられる。

  双葉は知らない
  自分がどれほど大きな木に育つものか
  双葉は知らない
  この岩が彼女の幹をいつまで支へてくれるのか

  彼女はただ逞ましい生長力の働くままに
  きのふの日射しの一筋づつを
  今日の彼女の細胞の一粒づつに輝かす
  彼女がつひに生き切つて
  ある日ことんと倒れる時まで

  双葉の可憐な生態が、写実におけるそれ自体の内面の想像という形の批評や、動物の一例としての雷鳥の生態との比較という形の批評を通じたりして、この詩の表面では描かれていないところの、すばらしく人間的なある生の営みの暗喩へとおのずから向かって行くようである。
  この詩は名品と言っていいだろう。

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