新井豊美「私と「私」のはざまで」

著者 新井豊美
タイトル 私と「私」のはざまで
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 23回[2008年]
分野 詩部門 分類 選評

  詩人は言葉によって自らを表すが、そのとき生ずる生身の私(つまりカラダの私)と言葉によって創られた「私」(つまりアタマの私)との裂け目、そのいわく言いがたい関係の矛盾を語るとすればどんな言葉があるだろうか。戦後の詩界にデビューして現在まで、つねに現代詩の先端にあって詩を書きつづけてきた谷川氏が語るその語りえない矛盾。詩集『私』で谷川氏は、詩でしか表すことのできないその裂け目をごく自然な日常の言葉で示しながら、詩人の中に詩が生まれてくる「現場」を読者の前にあきらかにしてゆく。アタマがカラダより愚かだと思いながら、アタマの私はコトバで自分を支えている、そのとき「私」にとって私は他者であるしかないのだろうか。一貫して詩とは何かを問いつづけ、あらゆるときあらゆる場面で「私」の言葉を正確に発しつづけてきた谷川氏であるからこそ、こうして二元論の矛盾をさまよう詩の発生がテーマとなり得たとも言えるだろう。矛盾と書いたがそれを「沈黙」と言い直してもよい。谷川氏には「沈黙のまわり」というアフォリズムがあるが、その中の、たとえば「始めに沈黙があった。言葉はその後で来た。今でもその順序に変りはない。言葉はあとから来るものだ。」を思いおこすとき、この詩人のアタマがカラダを手放し、カラダがアタマを見失うことは決してないと確信することができる。詩として表された谷川氏の身体と言葉の複雑なありようを語る言葉は、すぐれた存在論であると同時に明晰な詩論であり、しかもすべてを含めて大文字の「詩」、ポエジーの豊かさを十分に満たす圧倒的な力を持っている。選考にあたった三人の一致した共感と同意のもとにこの詩集が選ばれたのは当然と言えるだろう。
 谷川詩集と並んで最後まで残った詩集に平田俊子『宝物』と、四方田犬彦『人生の乞食』があった。『宝物』は現代社会のありようをブラック・ユーモアの世界に転じてみせる言葉の芸、話し言葉から書き言葉へのかろやかな転換の成熟度など、「平田ワールド」とも呼ぶべき独特の詩的世界の造形に高い評価が寄せられた。四方田犬彦『人生の乞食』は、イスラムに関する広範な関心とそれを体験してゆく行動力、自らを世界の辺境へ解き放ち、そのことによって得られた経験の卓抜な記述が読むことの喜びを与え関心を集めた。行動する詩人は日本には少ない。そこをどう考えるかと言うことになるだろう。甲田四郎『冬の薄日の怒りうどん』は、語り言葉の自在さと、おさな児の成長を見守る祖父の愛の眼が、ひろく人間存在への賛歌となっていることに共感が寄せられた。宮田登美子『竹藪の不思議』は、土俗的なものの力が読者を引きつける、その言葉の執念の形式につよい説得力を感じた。伊藤悠子『道を小道を』は、一瞬のポエジーをとらえる詩的センスのよさ、平明でありながら透明な精神性を感じさせる世界が高く評価された。

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