伊藤信吉『老世紀界隈で』(2001年11月/集英社)

著者 伊藤信吉
タイトル 老世紀界隈で
出版年月/出版社 2001年11月/集英社 受賞回[年] 17回[2002年]
分野 詩部門 分類 作品

[略歴]
  一九〇六年十一月三十日群馬生まれ。萩原朔太郎、室生犀星に師事。プロレタリア文学運動に参加し、その後、離脱。詩のほかに詩人論、作家論を発表。『萩原朔太郎』で読売文学賞。詩集『望郷蠻歌・風や天』で芸術選奨文部大臣賞。『監獄裏の詩人たち』で読売文学賞。『伊藤信吉著作集』(全七巻)刊行中。群馬県立土屋文明記念文学館館長。

[受賞のことば]
  受賞うれしく。お知らせいただいてニコニコしました。これまでに受賞された方々と肩を並べること、光栄です。受賞式には挨拶に代えて、古き自作詩「遠野ドルメン」を読みます。しばらく道楽をしてませんので、賞金の何ほどかで「ダダという名の店」という写真入り小さい本を作ります。大正回顧です。(写真・笠井武)
 「老世紀界隈で」の旧時代人の生活の呼吸、溜息、低い目線の蕪雑言、愚痴のあれこれを、現代詩の一篇として選定して下さった安藤元雄、飯島耕一、井坂洋子の御三人に御礼申します。

  
[作品抄出]
  

  秋夜 算数

終りコオロギらしい虫が鳴いてる。
ひそひそ絶え絶え鳴いてる。

師走入りの前夜、十一月三十日の燈下に、
孫むすめと遊んでる。

七十余歳下のはるかな年齢ところから来て。
に包みこんだ、

玩具ふう計算器から、手軽に、
彼女が数え取る。

満九十三歳は正味九十二年です。
そう?
ここで、算用数字に字変じがわりします。

  1ねん365にち×92ねん=33,580にちデス
 33,580にちじゅんねん23かい=33,603にちデス

昔、聞いたどこぞの寺の小仏こぼとけ数は三万三千三百三十三体だった。
あれより多いな。

え、計算まちがいじゃないな、
生きまちがいじゃないな、え。

たじろぐ私に、
苦もなく彼女は言う。
今年の分を合せてほぼ三万四千日です。

こんなに延びてる日数ひかず年数としかず
おじいちゃん、
どうしてた。

  

  ケータイ通りで

ケータイが通ってる。
ひっきりなし通ってる。
おしゃべりケータイで通ってる。
駅前交番の所で今どき風俗の流れを見てる。

見てる私は、
先刻さつき買ったばかりの。
パン包みを携帯けいたいしてるだけだから安気あんきなもんだが。
以前もとはそうでなかった。

うっかりそこらを通りかかろうものなら。
「おい、その袋。
 なんだ
 中味を見せろ。」
容赦ない。
ケータイひん調しらべだ。

携帯幼児けいたいようじ」って何のことか分かる?
あわれ、
女囚人が。
自分の子を抱えたり、
おんぶしたりする、それが。
ケータイ幼児だ。
監獄用語だ。

大正年代ケータイはちょっとよかった。
白粉しろいや。
っちゃい鏡や。
あぶら取り紙や。
コンパクト化粧品の色艶いろつやただよう。
御婦人携帯けいたいだ。

ケータイ流行ばやり
おしゃべり流行ばやり
風俗語なんぞ、どうだっていいが、
私だって。
ケータイしてる。

〈老齢〉という消える〈世紀〉を携帯けいたいしてる。

  

  盗用メロディー

よかった、
あの歌。
ふしまわし、咽喉のどざわり。みんなよかった。

  夏来る頃まで、雪の消えぬ、
 越後の国。
 昼なお暗き窓の下で、女は、
 ちぢみ織りだす。

上州、風の土地の子に。
越後、雪国は見知らぬ遠い国だ。

歌ってると。もっと、ずっと遠い外国よそぐににおいがした。
そうなんだ、
あの歌。
「スワニー河」のメロディー転用だったんだ。

たぶん。作詞、作曲を含めて。
一八九九・明治三十二年に「著作権法」が施行された、
が。

それよりも何よりも。
あのころ私たちがうたった魅力歌いいうたは。
幾つも。
幾つも。
西洋歌せいよううたメロディーそのままだった。

じゃ、借用?
じゃ、盗用?
いや、まあ、
そういう悶着もんちやくあとまわしにして。

魅力メロディーなら、
歌えばいい。
歌うことに何の罪科とがありや。それにまた、

  春風、そよと吹けば、
 さくらの、
 咲きこずえ

というのを愛誦した。
ところが。
のどやか歌詞のそのメロディーが。
「オールド・ブラック・ジョー」の転用だった。

  わが友、みな世を去りて、
 かすかに、われを呼ぶ、
 オールド・ブラック・ジョー。

幼年の歌が。
老年の歌に。
私を呼ぶのは誰ならん。

誰でもない。
私がうたってる。
元の盗用メロディーのままで。
身にぞ沁む。オールド・ブラック・ジョー。

  

  徒競走一景

旗の合図でスタートした。
円周五〇メートルほどの、
徒競走だ。

ずいぶん調子よく走っていたのに。
三分の二くらいのところで、
とつぜん立ち止って。K子・彼女は。

遅れてのろのろしてるR君を、
あわてない姿勢で待っている。
二人はいつもいっしょにいる級友だ。

徒競走だからって。
自分だけ先に行くなんて、
そんなこと出来るわけがない。

追いついたR君と手をとって
ゴールの方へゆっくりと。
負けになったことなぞ思いもしないで。

  秋晴れの陽射しに舞う、
 養護学校運動会場の土埃りに。
 私の眼がしくしくする。

(掲載作選出・井坂洋子)

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