粕谷栄市『<ruby><rb>化体</rb><rp>《</rp><rt>かたい</rt><rp>》</rp></ruby>』(1999年11月/思潮社)

著者 粕谷栄市
タイトル <ruby><rb>化体</rb><rp>《</rp><rt>かたい</rt><rp>》</rp></ruby>
出版年月/出版社 1999年11月/思潮社 受賞回[年] 15回[2000年]
分野 詩部門 分類 作品

[略歴]
  一九三四年十一月九日茨城生まれ。早稲田大学商学部卒。「歴程」同人。七一年詩集『世界の構造』で第二回高見順賞。八九年『悪霊』で第二十七回藤村記念歴程賞。詩集に『鏡と街』『粕谷栄市詩集』など。

[受賞のことば]
 「化体」は、私の第四詩集である。気がつくと、私の四冊の詩集は、全て「散文詩」によるものである。いまさら、気がつくと、などと書くのは、気がひけるが実感である。私は、夢中で、散文詩を、散文詩だけを書いてきたらしい。貧しい才能にとって、それは何だったのだろう。未来は茫漠としているが、私の、あるいは私だけの、この「不安な定型」は、なお私を魅了してやまない。詩集「化体」が、「詩歌文学館賞」を頂くことは、その私にとって、望外の幸せである。

 
[作品抄出]

 

  マーフィ

  マーフィは、私の幼馴染だ。この首都の北の河岸の二十番街で生まれた。精肉業者の集まっている街だ。彼の両親も、その仕事をしていた。
  兄弟は、全て、健康でたくましかったが、彼だけが、虚弱で小さかった。あまり学校に行かず、家にばかりいて、成長した。近所で育ったとは言え、どうして私が、その彼のことをよく知っているのか、不思議だ。
  顔だけは普通の大きさだったが、彼の身体は、極端に小さかった。年頃になっても、赤ん坊ほどで、帽子箱に入るくらいだった。事実、成人して独りで生きるようになると、自宅の地下室で、そうして過ごしていた。
  飛びぬけて頭が良かったから、若いうちに、何かに成功して、生家の近くに豪勢な家を手に入れると、死ぬまで、ずっと働かず、気ままに生きていたのだ。
  その彼の道楽と言えば、知っている他人に、変わってしまうことだった。二十番街の人間だったら、誰でも、一日か二日、贋のマーフィで無かったものはいない。
  そのときは分からないが、妙に物事がうまくゆくので、やがて、それと分かる。全く気づかず過ごしてしまう者もいる。ただ後になって、ひどく憂鬱になって、何日も部屋に閉じこもることになるのは、誰も同じだった。
  そんなことの無理からだろう。ある寒い夏、突然、たちの悪い膀胱炎に罹って、マーフィは死んだ。そのときは、気の強い近所の洗濯屋の老婆になっていた。で、結局、彼だったかどうか、あやふやになってしまった。
  全くの偶然だが、私の名前も、マーフィだ。肉屋の両親の子供に生まれたことなど、いろいろと似ている。
  だが、私は、帽子箱のなかで暮らせない。彼のどんな成功にも、能力にも、私は関係がない。
  ただ、この世に長く精肉業を営んで過ごして、ひどく憂鬱な夜など、私がマーフィになって、たちの悪い膀胱炎で死ぬことがあるだけである。

  

  投身

  高い建物の窓から身を投げること、自分が死ぬことを願って、そのまま、激しく地上に落下して、血だらけの袋のようなものになること。
  そのことに就いては、既に語った人がい。窓から空中に飛び出した途端、彼の肉体と魂は分離する。肉体だけが、先に墜落し、地面に衝突して破裂するのだ、と。
  運良く、それがさして損われなかった時だけ、そして彼の魂がそれに追いつけた時だけ、駆けつけた医師の傍らで、彼は息をふき返すことができるのだ、と。
  その通りだ。ただ、時代により、個人により、そのことにもさまざまな変化がある。特に、多くの人々が、やみくもに、自分の死を願っている昨今、その事実は、いろいろである。
  例えば、ありふれた猥雑な都会の深夜のことだが、一人の非常に肥満した男が、彼の所有する四十階の建物の窓から、飛び降りた場合のことだ。
  長く肉屋をして金を蓄えた男だそうだが、生涯にただ一度のその夜、彼は、何故か、全裸で、片手に赤い蝙蝠傘を持ち、空中に飛び出したと言う。
  普通なら、彼は、真直ぐに地上に墜落し、死体になるところだったが、そうはならなかった。途中、十二階あたりの空間で、高く傘を差し上げたまま、止まってしまった。そしてずっと、そのままだった。
  この事実を、したり顔に、この時代の人間と魂の在り方にかかわりがある、と述べる者がいる。愚かなことだ。今日、私たちの魂などと言うものは、別に、肥満した肉屋でなくても、何かに中毒して、とっくに別のものとなっている。
  そのためだろうか。奇妙に静かな深夜の街で、彼は、空中に赤い蝙蝠傘を高く掲げ、肥満した肉体から、特大の性器を露出して、いつまでも曖昧に微笑していた、それだけのことだったからである。

  *アンリ・ミショー詩篇「啓示」

  

  永訣

  一人の男が消滅する時間を、ほんの数分だと言う者がいる。いや、そうではない、数時間、いや、もっと長い時間、長い特別の時間だと言う者もいる。
  いずれにせよ、それは、ごく単純なものらしい。例えば、それは、その男が、深夜、首都の郊外の駐車場に、独り、全裸で立っていることから、始まる。
  彼は、何故か、古い山高帽をかぶって笑っていたが、別に、そのためだと言うことはないだろう。遠い三日月の見守るなかで、唐突に、彼の手足が消え、次いで、胴体が見えなくなる。
  小さな笑顔と男根だけが、しばらく空中に漂っているが、やがて、それも完全に消え失せる。深夜の駐車場には、淋しい灯に照らされて、何台か、修理不能の壊れた自動車が、並んでいるだけだ。
  七人もの子どもを妻に生ませ、下町で仕立屋をしていた男に、どうしてそんなことが起こったのだろう。彼は、道楽で、永年、密かに、ある種の裸体写真を収集していたそうだが、そのためだったろうか。
  この酷薄な焼却室の時代、人間が生きていることは、それ自体、一つの謎である。それを考えれば、この事実は、別に、大した意味を持つものではあるまい。
  要するに、このことを知るのは、その夜、消滅した彼のみであり、その彼も、現実には、月末の請求書の散乱する仕事場で、机に凭れて眠っていた。
  従って、この出来事の一切も、ごく自然に、世紀の闇に消えて行った。最後に、一瞬、ある強制収容所の夥しい死体の山の幻が、彼の頭上に現れただけであった。
  そして何ケ月か後に、彼は、喉頭癌のために死亡した。つまり、本当に、この世から消滅したのである。
  そのときも、彼が、全裸で、山高帽をかぶって笑っていたかどうか、それを知るのは、どこかの遠い駐車場の三日月だけである。

  

  死刑

  ヘンリー・リー・ルーカスの過去の思い出と言えば、少年時代の頃のことだ。夕暮れになると、母親は、いつも安物の派手な服を着て、街へ出て行った。一日中、あまり顔を合わせることも無かったのに。
 父親はいなかった。以前、暗い雨の夜、酔っぱらっていて、高架鉄道の下で、誰かに殴り殺されていたのだ。
 独りになると、だから、ルーカスは、夜更けまで、高架下のそのあたりで、塀に空き瓶を投げつけて過ごした。瓶は、乾いた音をたてて、四方に飛び散った。
 やがて、その塀が裂けて、黴臭い年月と、埠頭倉庫に、荷物を盗みにゆく仲間たちが現れた。下着のしたに、そっと手を入れてくる、女友達もやって来た。
 ルーカスは思い出す。その頃から、聞こえはじめた声を。倉庫から走って逃げる途中、冷たい闇のなかで、声は言っていた、右へ曲がれ右へ、と。
 そして、細い路地を、右へ曲がると、場末の街があって、暗い街灯のしたに、安物の派手な服を着て、客を待って立っている女たちがいた。彼女たちを見ると、頭のなかで、何かが凍りついた。
 声は言っていた。殺せ、殺せ、殺せ。暗い雨の夜、そして、初めて、その一人の下腹にナイフを突き刺した。それから、雨の夜が来るたび、彼女たちを殺した。
 最後に、女友達のベッキーを殺した。彼女も、あの淫売たちの一人になったからだ。その手で、いつも自分を慄える歓びの天国に連れていってくれたのに。
 死刑囚ヘンリー・リー・ルーカスは、独房に座って、じっと自分の手を見ている。これは、俺の手じゃない、ルーカスは、もうどこにもいない。この手は、俺を騙る目鼻のない男のものだ。
 右へ曲がれ右へ。ルーカスは目を瞑る。紙幣とコンドームの時代、街に無数に殖えたそいつらが、俺と俺の魂を作り、古新聞の記事のなかで、俺を死刑にしたのだ。

  *江代充「黒球」に拠る

  

  雪

  雪のはげしく降る夜、ひとりの女に逢いに行った。逢いたいから逢いに行くので、雪にかかわりはなかったが、雪は細かくはげしく降って、それを渡るたび、闇の深くなる橋を、つぎつぎに、寒い行方にかけた。
 雪の降りしきるなか、一つずつ、それを渡って行くと、この世に、女がひとりしかいないことがわかる。今夜が、ふたたび無いことがわかる。
 逢うことができようが、できなかろうが、逢いたいから逢いに行くので、雪にかかわりはなかったが、雪は、いよいよ、はげしく降って、あるはずのない高い橋を、またしても、夜更けの街の空にかけた。
 一つずつ、それを渡ってゆくと、この世に、自分が、ひとりしかいないことがわかる。畜生が、畜生のいのちを生きることが分かる。
 細かくはげしく降るもののなかで、あるいは、二つの生涯のせつない闇を知るだけなのだが、雪にも、血にも、どんな匕首にも、それはかかわりのないことだ。
 あるはずのない白い涅槃で、男が、何度、生まれ、何度、死ぬことができるか、女が、何度、死に、何度、生まれることができるか、どっと降りつのるもののなかを、また一つ橋を渡って行くのだ。

  雪のはげしく降る夜、一つの物語に逢いに行った。それからあとの二人の小さな火のことは、なお、降りつづいた雪の知らないことだ。夜更けの街の路地という路地を埋めた、雪にかかわりのないことだ。

(掲載作選出・宗 左近)

カテゴリー