財部鳥子「仮想の現実」

著者 財部鳥子
タイトル 仮想の現実
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 26回[2011年]
分野 詩部門 分類 選評

  選考に臨んで机上に並べられた数冊の候補詩集を繰返し論評したのは、三月八日の午後だった。夕方になってようやく本年度の受賞作を全員一致で決定することが出来た。
 須永紀子詩集『空の庭、時の径』である。タイトルを見ても抽象的なことの定着を思わせられる。須永紀子にはすでに刊行された詩集が数冊あるが、私は一冊一冊から地味な非常に慎ましやかな印象を受けてきた。なぜこんなに目立たないのだろうと思ったことがある。それは詩の幾つかはどこかに廃墟があり、リセット不可能な場所にイメージとテーマを残そうとする作りだからだろう。
 そして生々しさより、観念的な詩句が多く、まじめな詩人の精進振りを想像させるのだった。詩の崩れにもメソッドがあるようなきちんとした詩であるのは、この度の受賞詩集『空の庭、時の径』も例外ではない。
「仮想の日常に生きるわたしの上を/今日も透明な厄災が通過する」という詩行があるが、そこが詩人の選んだ位置だろう。しかし、選考会から三日たって東日本大震災が起きると、彼女の詩句はすでに仮想をかなぐり捨てているのに気づく。
 須永紀子が編集発行人である詩誌『雨期』は私も愛読者の一人だが、すでに五十六号を数えている。そこにはすぐれたブックレビュー「短編通信」が連載されていて、自ずから須永さんの小説の好みが分かるが、それらの小説は決して彼女の詩のようではない。しかし、詩の方は入り組んだ短編小説とも思える。
 目に映るものを記憶するため
 わたしはわたしの内部で声をあげる
 ことばを組み立て筋を通し
 語るべき時が来るのを待つことが
 歩くことと同時になされる
 そういう詩句を読むとき、わたしは開かれないページをペーパーナイフで切り開きつつ、同時に詩人の胸も切り裂きつつ内面に侵入していくような気がする。そこで詩人が深く考えていることは、言葉とは何かという誠実なことである。言葉で組立てられた農場や古い都市で詩人の傷と希求に対面する。消息を絶つ片方の靴、善きものを数える歩哨、犬のように干し肉を喰らうわたし、また「セント・ジェームズ病院」の通奏低音のような悲しいブルースなどである。集中の佳作「旧市街」は「細かくちぎられ/再び貼りつけられた写真の」ように再構築の意思によって定着されている架空の街だが、津波で壊滅した東北の町村を現実に私たちは見ているのだ。
 堅固な構成と詩句、一貫した言葉への考察で今までの彼女の詩業の成就に着々と近づいてきた詩集だが、それが現実の原発の「透明な厄災」と重ってしまう予言的なことが起きた。

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