著者 | 大岡信 | ||
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タイトル | 思想的抒情詩の成果 | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 12回[1997年] |
分野 | 詩部門 | 分類 | 選評 |
詩集の後記にさりげなく書かれている次の言葉は、この『岸辺にて』という詩集を読む場合、読者の頭にこびりついて離れないものであるだろう。
「がんの手術をして以後のこの時期は、ずっと生死の岸辺を歩いていたように思われる。その一刻一刻、書くべきものについて、何ものかによって験されていたように感じられる。」
そうだったのか、田中さんは癌の手術をしたのだったか、と思い、いくつかの詩の謎めいた何行かが、うっすらとその背景の深い闇を明るませながら立ち上がってくるのを知る。
影は刻刻とひろがり
わたしの立つ岸までを
呑み込む勢いだ
たとえば この都市全体の
運河水路図が
わたしの血管の網目とするならば
影はすでに
生の大半を蔽いつくしているだろう
(「半分」)
この詩句を書きとめている時、田中清光は、現実には堪え難い恐怖を感じながらであったはずである。けれども、この詩においても、他のすべての詩においても、詩人は恐怖の感情を、素朴にまた露わに、言葉にしてはいない。右の「半分」という詩の末尾はこう終る。
しかしまだ
最後のひかりは
地平からわたしの眼球のすみにとどいている
そこから火を感じるあいだは
地球の半分だけは見わたせる
別の詩にも、次のような美しい表現がある。
独活を切り取ったあとも
残りの空間はやわらかい
それはあなたが
この山河のどこかに息をひそめているからだ
(「あなた」)
この「あなた」がどのような存在なのか、ほんとは田中さんに教えてもらわねばわからないことに属するだろうが、少なくとも田中清光は、これらの言葉を書きつけることによって、われわれの存在を根柢からゆさぶる恐怖――病いの恐怖、死の恐怖、苦悩の恐怖――に対してうちかつ術を手に入れ、すでにある意味ではうちかち得ていると思う。田中さんが長い詩歴を通じて書き続けてきた思想的抒情詩が、日本の現代詩の最も顧みられること少ない地帯で、このような成果をあげていることに、深い敬意を表したい。
しかし、それがまた、このような肉体の危機と相携えてやってきたことへの、何とも言いようのない厳粛な思いを、どうしたらいいだろう。心からご加餐を祈る。