田中清光『岸辺にて』(1996年8月/思潮社)

著者 田中清光
タイトル 岸辺にて
出版年月/出版社 1996年8月/思潮社 受賞回[年] 12回[1997年]
分野 詩部門 分類 作品

[略歴]
  一九三一年三月一九日、長野県更埴市生れ。八十二銀行に勤務し、昭和五一年に退職。主な詩集に『黒の詩集』『収穫祭』『風の家』『空峠』。評論に『山村暮鳥』『詩人八木重吉』など。

[受賞のことば]
  ここ数年、殆ど人間の生死、身体をモチーフの根においた詩を書き続けてきました。この間、癌の手術を受け生死の境をさまよってのち今も通院を続けているという現実を生きていますが、そんななかで貧しいながら人間存在の際涯の光景を問い実相を映し出す詩を求めてきたつもりです。ときどきに想念は自然をたずね、彼岸の時空へ翔けたりもして、古今東西の方々の言葉や思想の恩恵に浴して参りました。
  これからも残された時間、詩を書くことによって視力を深め息をつないでゆくほかない私にとって、この度の受賞は大きな励ましで、心から感謝しております。

 
[作品抄出]
 

  名もなき旅

川を渡ってみたのか
それとも地獄にちかい闇の国からすこし
離れたのか
生命線にそった
くらいみずうみをなぞって
霊の花ばなのうちふるえる荒野にさしかかる

出る息は
次の入る息を保証しない
ごく当り前のことをって
ふと笑ってしまう
在る処から離れてみて
皺くちゃの涙が
可笑しくころげおちる

これからなんども立往生した断崖きりぎし
さしかかるのだが
すっかり這い慣れてしまった恥骨のきしみ
からからに乾いた皮膚が
この旅にたむけるものといったら
掌で握れる静かなモナド
もしくは燃える視力

まだ見ぬ果てもあり
草地もあるが
水枕で見る一個の種茄子が
これからの全宇宙となる
わたしの目はその球体のなかにも海を
火に煽られる亡者の姿や
少年の白い脛を透視する

毛一筋ほどの重さもない
空が
一刻一刻戻らない光に染まり
風も吹きながれる
床に身を起こし
かすかな遠くの声に耳を傾けていると
背中はそのまま自然薯じねんじよに似てくる

 

  ことしの若葉

ことしの若葉はとびきりかぐわしく感じられる
魂の香料をさがす一日また一日
香わしい
野山の届けてくれるものをただ受け取っていればいい
というはずでもないが
こちらから送り届けるものがあるわけもなく
葱坊主のように猫背で水を吸っている

寝たままのこのありさまが実存なら
十センチ身をずらせばそこは深淵となる
じつは藤の花房が枕の水平線に垂れかかっていても
わたしとの距離はすこしもつづまらず
限界線は熱にうなされて見た
夢のなか遠く 〈永遠〉も
宙吊りのままだ

牡丹の花にも逢えぬまま
恥かしい臍の中心に
花の幻影を抱いているが
すでに硬い瘤が
死を凌駕する勢いで突起している
陽あしがのびるなかで
生は過剰となることなく ただ匿されてゆく

どのような排泄であろうと
人体にとってはさみしい
この先が片山里であればこそ
流出するもので
タラの芽ぐらいはかがやかせねば
宇宙のしずくを掬いとって
若葉は炎え

木にも石にも終わりがない
天地のなかだ
どこへでも赴く覚悟はあるが
ただ もうここに帰ることはできないかもしれぬ
帰り着く前に
土も空も立ち去ってしまうかもしれぬ

 

  水

誰の目の底にも
水はながれている
たとえ地が涸れても
狂ったヘルダーリンは
ふるさとの「小川」を視つづけた
一滴の水のなかに
かぎりない目が映り
太陽も日毎そのなかに沈んでゆく
風穴のように穿たれた
わたしのからだの暗い地底にも
人知れずながれている水がある
その水に三千年も前から
釣糸を垂れている
ものがいる

 

  半分

濃い影が
木立の半分を
見えなくしている
影は刻刻とひろがり
わたしの立つ岸までを
呑み込む勢いだ
たとえば この都市全体の
運河水路図が
わたしの血管の網目とするならば
影はすでに
生の大半を蔽いつくしているだろう
言葉の葉むらは
したたりを失い
地の傾斜にそってくだる道は
わけもなく彼岸へいそいでいるが
しかしまだ
最後のひかりは
地平からわたしの眼球のすみにとどいている
そこから火を感じるあいだは
地球の半分だけは見わたせる

 

  あなた

独活ウドを切り取ったあとも
残りの空間はやわらかい
それはあなたが
この山河のどこかに息をひそめているからだ
しずかな円や
はげしい静物が
歩いている
どこからともなく
死児のさけぶ声がする

すこし騒騒しい夕暮れの路上で
物も人も翳りながら
ありのままをさらしている
すこし滑稽で
すこしものがなしいのは
わたしたちの生の
目にあまる衰弱ぶりだ
夕陽は
千古の田園に
墨汁をたれ流してゆく

闇につつまれた川べりのタブノキで
古代人の夢のままに霊感を光らせている
蛍もあり
形而上的な柱も見える山河ではあるが
今かぎりなく 喪失の恐怖はひろがっていて
残りわずかなあの世との境い目で
立ちどまる
あなたの力が
わたしをわずかに
踏みとどまらせている

 

  夜明け

橋の欄干をすべるように
灯が渡ってゆく
あれは夜の明けきるまえに
出立してゆくものたちだ
風景はこのまま終わってしまうわけではなく
ようやく始まる気配なのだが
なにが訪れてくるのか
わたしたちには
なにも知らされてはいない
動くものとしては
出立してゆくものたちがあり
石や土蔵のように
古くから居すわっている物と物とのあいだで
曙の光が
芍薬花に火を点ずる

 

  その人

死ぬまぎわの木の葉が彩る
谷奥へ入ってゆくと
ひそひそと小声がする
大切な訪問者を待つように 一様に上気して
木木は
渡ることのできない火の河を前にざわめいている

ひそひそごえは切迫して
聞こえてくるが
ほんとうは
誰もやって来ないのだ
西日が照らす病んだ木の葉も
老松も
眼光に耐えようと待ちつづける
その人はもう
枯草に隠れてしまっているのに

(掲載作選出・大岡 信)

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