平田俊子「あたたかな追悼」

著者 平田俊子
タイトル あたたかな追悼
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 30回[2015年]
分野 詩部門 分類 選評

  八木忠栄さんの『雪、おんおん』は喪の詩集といえるかもしれない。父、母、弟、愛犬など、亡くなった人や生き物を悼む詩が多い。しかし、そういう詩集にありがちな湿っぽさはない。むしろあたたかさと明るさに満ちているから、かしこまることなく読むことができる。
 八木さんは俳句や落語にも詳しく、それらについての著書もある。肉親の死を書いてもからりとしているのは、落語や俳句を通して得た死生観によるのだろうか。生きているものはいつか死ぬ。それが自然の摂理ってもんだ。死ななかったら大変だ。そういう境地を八木さんの詩に感じる。
「こぼれる、彦六さんよ」は、落語家・林家彦六の逸話から始まる痛快な詩だ。「網籠の底が破れていることに誰も気がつかねえ、/だれか、おせえてやれ!」。「おしえて」ではなく「おせえて」なのが江戸っ子の彦六らしい。明治生まれの彦六には、バスケットボールのネットはあくまで「網籠」でなくてはいけない。
 この詩はこぼれるものをたくさん並べ立てるが、こぼれるものとこぼれられるものが通常とは逆だ。「入れ歯から爺ちゃん婆ちゃんが/札束からふところが」こぼれるのだから、まさにナンセンスの面白さ。
 さらには「木枯から海がこぼれる/ぎんなんからぎんのよるがこぼれる/胸の骨からきりぎりすがこぼれる」。このあたり、山口誓子や加藤郁乎、石田波郷などの俳句が紛れ込んでいる。詩から俳句がこぼれたのか、俳句から詩がこぼれたのかわからないが、俳句と親しい著者ならではの遊びがある。
 八木さんは新潟出身だ。「母を洗う」という詩で、母は新潟の方言を使う。「ばかげたいい月だねか。」「いとしげになったねかやあ。」。方言によって詩にあたたかみが加わる。土地の力が加わる。
 彦六には江戸の言葉、母には新潟の方言がある。故郷を離れて久しい自分の言葉はどこにあるのだろう。八木さんは自分に問う。詩こそ自分の言葉だと胸を張って答えるしかない。
 両親の死も、愛犬の死も、八木さんは静かに受け止めている。親は子どもより先に亡くなるのが道理だし、犬の寿命は人より短い。悲しいけれど仕方がないと自分に言い聞かせるように。
 やりきれないのは子どもの死だ。「赤いランドセル」の語り手は、自分を背負う背中をなくしたランドセルだ。東日本大震災で亡くなった子どもを思って書かれたのだろうか。ほかの詩と違い、涙にぬれている。新潟でも、過去に大きな地震が何度もあった。いろいろな形で命を奪われた子どもたちに向けて、この詩は書かれたのかもしれない。
 人間味あふれる八木さんの詩集。ふところが大きく、安定感がある。別の角度から眺めると、郷里での少年時代、上京後の青年時代、そして親を見送る熟年世代の詩人の姿が見える。『雪、おんおん』は八木忠栄の生涯を映す詩集でもある。

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