長田弘「投げられた小石」

著者 長田弘
タイトル 投げられた小石
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 29回[2014年]
分野 詩部門 分類 選評

  詩には行アケという空白の一行をはさむということがいわば約束事としてあって、ときには行と行のあいだに、また、しばしば連と連のあいだに、行アケが措かれることがすくなくありません。
北川朱実さんの詩集『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』では、行アケが、ただ約束事としてというのでなく、むしろ意識的に、意図的に、みずからの詩の手法として多用、活用され、この詩集に自由な空気を引き入れる効果をもたらしています。
北川さんの行アケは、息継ぎや間合いのための休止の行アケではなく、そこを跳び越えるための行アケ。そのために、言葉がまっすぐ先へ走り抜けてゆくような爽快感がのこります。
『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』は、その意味で、小石のように投げられた言葉が意識の水面に触れては跳んで、まっすぐに弾んでゆく、いわば水切りの詩法で書かれた出色の詩集です。
水面を弾んで跳んでゆくように小石を投げるのが、水切りです。詩集の巻頭にあるのは、言葉を小石として水切りのように投げてはじめて、「字が書けそうだった」とうたわれる詩。
「ひらべったい文字を/川に向かって投げると/何かをこらえたように/いくつも水を切って見えなくなり/空を  白い貨物船が/律儀にゆっくりと航行していった/字が書けそうだった」と。
詩集『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』に一貫しているのは、言葉と人間の関わりです。
私たちは何者なのか。まだ言葉をもたない赤ん坊の目に見える「私」は、ただ「空色のブラウスを着て/手足を動かすもの」にすぎないということ(「小さな旅」)。成長して人が言葉をもつとは何をもつことなのかをつよく考えさせる、この自己規定は印象的です。
あるいは、戦争世代だった「父」。その「父」の最後を見とれなかった「私」には「父」の記憶は、弾薬袋を背負い、スコールに濡れながら、ヤシ林を歩いていく戦地で、「尾が一メートルもある赤い鳥に見とれて/分隊からはぐれてね」とうれしそうに何度も話してくれた言葉に尽きること(「夏の歩兵」)。
そしてまた、言葉を失いつつある高齢の「母」が清潔な病室のベッドの上で、宙を指さして、ほらあそこにカラスアゲハがと言い、「いいねぇ、/ひらひらしながらいなくなれて」とつぶやくのを聞いて、そうやって人は老いつつ、死を待ちつつ、時を失くしてゆくほかないいま、言葉は人にとって何でありうるだろうかということ(「冬の柩」)。
読むものの意識の水面をツツッ、ツツッと小気味よく弾きながら、投げられた小石である北川さんの詩の言葉は逸れません。『ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ』という変わった詩集のタイトルは、詩集中の「影のはなし」という詩の一節、「真夏の川原で/力まかせに割ったラムネの瓶/錆びた炭酸ガスのばくはつ」から採られたもの。

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