鈴木ユリイカ『海のヴァイオリンがきこえる』(1987年12月/思潮社)

著者 鈴木ユリイカ
タイトル 海のヴァイオリンがきこえる
出版年月/出版社 1987年12月/思潮社 受賞回[年] 3回[1988年]
分野 詩部門 分類 作品

[略歴]
  昭和十六年十月三十日、岐阜県生れ。明大卒。現代詩ラ・メールの会会員。昭和六十一年『Mobile・愛』で一九八六年度H氏賞受賞。現代詩人会会員。

[受賞のことば]
  若い時から詩を読み、少しばかり詩を書いてきましたが、この世には美しい、驚異に満ちた、人間わざとも思えない程の完璧な詩が数多くあることにいつも驚いてきました。私などが詩を書いても、なにほどのことがあろうと思ってあきらめたり、また書き始めたりしながら、もう46歳にもなってしまいました。
 ただ、どうして詩をやめなかったのか、やはり詩を愛しているからで、そして、他のことが出来なかったからなのでしょう。ラ・メールの仲間たちからは『鈴木さんの詩、わかるよ』と励まされ、そのたびに元気を出して書きました。ありがとうございました。

 
[作品抄出]

  海のヴァイオリンがきこえる

海のヴァイオリンがきこえる
遠く遠くの方から水晶の肩をふるわせ
浜辺に鏡のような潮が満ちてくる
月光の足をつかまえようと魚たちが踊りきらめく
海底に匂うような白い花たちがゆれ
古いなつかしい童話メルヘンがひっそりと目をさます
海のヴァイオリンがきこえる
ゆるやかに川の水流と海の満潮の間ですすり泣く
春の若い風をひき連れて
牧場の馬たちを走らせ
田んぼのまだら雪を溶かし  木々をゆすり
線路を真直ぐ走り  わたしの窓辺の
夜の都会いっぱいにひろがる
風景はやわらかい顔のようだ
わたしの耳は白い帆のようだ
海のヴァイオリンがきこえる
遠く遠くの方でのびやかにクラリネットが立ちあがり灯台の光がぼおと
  かすむ
死者たちを乗せた船が静かにすべり
遠く遠くの方でみんなみんなちいさく手をふり合図する
海のヴァイオリンがきこえる
夜明けのバラ色の楽譜が開かれ
すきとおった波の半音階が踊る
かもめたちが朝の食事にまいおりる
海のヴァイオリンがきこえる
花の木の下をすきとおった死者たちがすれちがい陽光のゆらめきのなか
  でゆるやかに抱きあう
今年は桜の黒い幹がしとど濡れた
まだ死者たちの生活に慣れていない
子どもの死者たちがちいさな手で花の木にすがりついたからだ
桜のはなびらも白いモクレンのはなびらも黄色いミモザのはなびらもみ
  んな散った  みえない子どもたちにふりそそいだ

海のヴァイオリンがきこえる
お父ちゃん  あなたも海の青い部屋でヴァイオリンを弾いているのです
  か?
アルコール・ランプの青い炎で珈琲を沸かしているのですか?
海はうつくしいですか?
生きているときに郵便切手や草花を大きなルーペで一心にながめたよう
  に
海草や貝や魚たちや珊瑚を観察しているのですか?
それとも写真を現像したり海底牧場や海底都市の設計図を引いているの
  ですか?
海を散歩する自転車やスクリューを研究したり新しい生物や新しい鉱物
  を発見しましたか?
海のヴァイオリンがきこえる
わたしはあなたが正しい姿勢で優美にヴァイオリンを顎にはさんで立つ
  のをみるのが好きだった
あめ色の石で弦の手入れをするのをみるのが好きだった
生きているときにあなたは憂欝な天使にとりつかれていたのであなたが
  あんなにたくさんの仕事をしたなんてわたしは知らなかった
あなたの造ったダムや橋や無人灯台はどこにあるのですか?
あの憂欝な大きな女の天使はいまでもあなたにとりついているのです
  か?
アルベルト・デューラーの「メレンコリア・I」という銅版画エツチングをみたと
  き
わたしはあっと驚いてしまった
あの銅版画のなかにあったコンパスや魔法陣、砂時計や秤、鋸、のみ、
  金槌、釘、ふいご
それから暗い海の向うで
にたにた笑っている蝙蝠
あれはあなたの部屋そっくりだったから
あなたが生きているとき
わたしたちにはあの憂欝な天使はみえなかったのです
わたしにあんなにはっきりみえたのは
あのコンパスなのです
あのコンパスであなたは何もかも測った
わたしが学校からもらってきた進駐軍のチョコレートケーキでさえ四つ
  に測って切り分けた
あなたがダイダロスのように何もかも造ったので
わたしはイカルスのように毎日落ちなければならなかった
海のヴァイオリンがきこえる
物たちに対してあんなにデリケートだったあなたは
ことばに対してなぜあんなに無神経だったのでしょう
食事のときあなたの罵詈雑言に打ちのめされてわたしたちは魔法にか
  かった森の妖精たちのように身動きできなかった
きっと長い長い軍隊生活があなたの神経をズタズタに引裂いたのでしょ
  うね
わたしが死ぬまで戦争を憎むのはたくさんのひとが死ぬだけでなく生き
  残った者の神経もズタズタにするからです
ときには  人間はことばによって
死ぬこともあるのですよ
いまは小学校や中学校の子どもたちがことばによって死ぬこともあるの
  です

海のヴァイオリンがきこえる
お父ちゃん  わたしはあなたを愛したのですよ
でも  あなたは女の子というものが全くわからなかった
女の子というものは体のなかにちいさな花や星や貝がらや何かをたくさ
  ん持っていて
いつもやさしくゆすっているのです
体のなかに深いよろこびや痛みやかなしみを持っていて  ずっとたって
  から少しずつ
子どもたちに分けてあげるのですよ
それは何かとてもデリケートなもので
ある神経に触れるとズタズタに引き裂かれてしまうようなものなのです
  よ
もちろん  それはあなたのような男のひとのデリケートさと全く違うも
  のですけれど

海のヴァイオリンがきこえる
あなたはきらっていたけれど
わたしは詩人になりそうです
わたしのたったひとつの仕事に力を貸してください
いつかわたしはことばで無人灯台を造りたいのです
ことばのテトラポットを埋め
ことばのコンクリートブロックを埋め
そうして  どこか知らない海にかすかなオレンジ色の光を昼も夜も放っ
  ている無人灯台を

海のヴァイオリンがきこえる
それでも  あなたのヴァイオリンはやさしかった  もうだまってあなた
  の音楽をきこう

……………………

みんな元気です
お母ちゃんは糖尿病と白内障から回復しました
まだまだずっとお母ちゃんを呼ばないでください
海のヴァイオリンがきこえる
風景はやわらかい顔のようだ
わたしの耳は白い帆のようだ
遠く遠くの方でのびやかに灯台の光がぼおとかすむ
死者たちを乗せた船がゆっくりと遠のき
みんなみんなちいさく手をふり別れを告げる
このふりそそぐものはなになのか?  死者たちにも生きているものにも
  ふるはなびらなのか?  目にみえない音楽の雪なのか?
チェス盤に降る雪は降りつもり降りやまじ

 *「メレンコリア・I」
  アルベルト・デューラー(一四七一―一五二八)
  ドイツ・ルネッサンス最大の画家・版画家。デューラーは「黙示録」(木版)「騎士と死と悪魔」
  「書斎の聖ヒエロニムス」「メレンコリア・I」などの世界でも最も謎めいた作品を残している。
  「メレンコリア・I」は憂欝な女の芸術家の天使が無気味な夜の空をながめていて、デューラーの
  母が亡くなった年に描かれたと高階秀爾は言っている。

(掲載作選出=新川和江)

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