大下一真「心に響くこれこそが」

著者 大下一真
タイトル 心に響くこれこそが
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 30回[2015年]
分野 短歌部門 分類 選評

    口を出でし言葉は耳へ伝はりて心に響くこれこそが歌
    歌は論を立つる器にあらねども挑まむぞよき余白の隅に
    さはあれど比喩は間接の域を出ずまして暗喩は奢りが臭ふ
  歌集の中ほどにこのような作品が見える。「心に響くこれこそが歌」「論を立つる器にあらねども挑まむぞ」は短歌に託した歌論。比喩も暗喩も排してまっすぐに述志を目指すのが作者の基本姿勢だから、奇抜な題材も華麗な修辞もなく、一見はまこと地味である。
    敗戦後間もなき頃に使はれし先師が硯小さくつつまし
 「先師」は窪田空穂。一見つつましい硯は空穂の象徴であり、受け継ぐ作者の姿でもある。しかし、硯はたやすくは壊れない。
    西に向き線路に沿ひて歩み行く山にあらねば道は平らなり
    大津波に崩落したる岩礁と指差す見れば波砕け散る
    家あらぬ町一面をおほふ雪白くかがやきなべては見せず
  東日本大震災の折の作。「線路に沿ひて歩み行く」は当日の体験、平らなるのは良いことだ。その後の被災地での属目では、自然の強さ酷さと、しかし美しさも捉える。
    かくまでも人苦しむを省みぬ企業呪はむ国疑はむ
    墜つるより滅ぶがましと人のいふ指折りて思ふ滅びたる国
    世に生きて怨みありやと人の問ふあらぬ筈なし何より戦
  社会を憂い、憤る。静かだが、凜とした志が光る。それは、大連に生まれ育ったことと深く関わる。
    みづうみおもにけ寒き風は過ぎ波立つ悔のとめどもあらず
    梅雨空に山は見えねど耳にあり山路踏み行く君が足音
  挽歌が多いのは、年齢的にも致し方のないところか。誰に向いても丁重な作者である。
    顧みて潤ひ乏し雨の降る今宵は飲まむ棚奥の古酒
    時過ぎて色の褪せたるもみぢ葉のそのありのまま水面に映る
    香り立つ皿の焼鮎一瞬に骨引き抜かる姿のままに
  些事も丁寧に歌われると風合いを帯び、おのずからなるフモールも宿る。
    旧友と呼びかはすごと次々に山の名唱へ飽くことのなし
    山道は下りとなれり人間じんかんに近づくほどに身は引き締めむ
  そして、山を愛して登る作者。窪田空穂は山岳紀行文学のパイオニアだが、この方面を継ぐ人は多くない。先師空穂から受け継いだのは、硯だけではないのである。
  口早に述べたが、丁寧に、心に響く歌に徹した作者ならではの世界がここにある。

カテゴリー