著者 | 花山多佳子 | ||
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タイトル | 民俗の水脈 | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 29回[2014年] |
分野 | 短歌部門 | 分類 | 選評 |
作者は愛媛の生まれ。隣県の香川に三十年余りを住む。屋島を望見する地であり、「日本書紀」に登場する地名の「屋嶋」の字を採り、タイトルにしたと「あとがき」に記している。
選考会で一致して出た言葉が「風土」と「厚み」だった。しかし、厚みというだけでなく、この歌集にはほどけた緩さ、とでもいうものがある。
あの匂い何かと遍路に問われたり四国をつつむ
日本の風土かもせる味噌蔵のような時間を体よろこぶ
「摩訶」にしても「味噌蔵」にしても、何か混沌とした豊かさがぼわんと伝わってくる。体が緩むようなあたたかさがある。玉井清弘というと清浄で端正なくっきりした歌がまず思い浮かぶのだが、その印象とはだいぶ違う。
同じ一連には「歩いての四国遍路二度目を結願」の詞書を添えて、こんな歌もある。
二周目を歩き終わりてなに見えしなんにも見えずまた歩くべし
八十八ヵ所の遍路を二回も結願している! 「なんにも見えず」と言うのも一つの境地であろう。見えないことを愉しんでいるようにさえ感じられる。
風鈴の
いびつなる形にひらくお遊戯の蓮の花びらまたひらきたり
猫じゃらし持ちたる童子背後より近づく気配おどろきやらん
『屋嶋』ではユーモラスな歌がそこここに見られるのも選考のときに話題になった。どんな歌をユーモラスと思うかは、人それぞれだが、ここにあげた歌のおもしろさも、その一つと思う。「おのこご二人ちりと鳴りたり」が「風鈴の季はやくすぎ」と相俟って、実に独特な面白い雰囲気をかもしている。お遊戯のいびつな蓮の花、猫じゃらしを持つ童子、日常のなにげないことが、何か民話のような、なつかしい趣きを持っている。
思えば第一歌集より作者の歌には民俗的ななつかしさ、あたたかさが水脈としてずっと流れていた。それがしだいに全体を包み、現在の日常に、また文体にも表れてきているようだ。
紀元二千六百年わが生まれ年刻める石の雨にしずくす
またどっと派遣労働者切りすてぬはないちもんめ歌いつつ来て
竹串に掘りとる野蒜ふるさとに祀らるるなき戦死者の骨
作者は昭和十五年、いわゆる皇紀二千六百年生まれ。兄は戦死している。戦争や社会というものへの傷みの思いも一貫して強い。それが理でなく棄民の哀しみとして「はないちもんめ」や「野蒜」に歌い出されるとき、独自の強い説得力を持つ。
現在の風景にまじる歴史の時間、民俗の時間を見出してゆく『屋嶋』には豊かな味わいと癒しがある。