著者 | 三枝昻之 | ||
---|---|---|---|
タイトル | 歌の包容力 | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 24回[2009年] |
分野 | 短歌部門 | 分類 | 選評 |
短歌は長距離ランナーの詩型だ。橋本氏と『悲母像』はそうした特徴を改めて実感させてくれる。まずタイトルにもなった「悲母像Ⅰ」を読んでみようか。
ひつそりと平和を祈る姿にて森蔭に小さき美術館あり
フィリア美術館のガラスケースに端切れありアウシュヴィッツ囚人の
夏衣の端切れ
一連九首の冒頭二首。一首目は導入歌といったおもむきだが、森の中の小さな美術館というロケーションが、声高な反戦平和の主張とは異なる小さな祈りの気配を漂わせて、読者をごく自然に次の展開に導く。
二首目は館の展示を見つめている。示されているのは一片の端切れだが、そこからは端切れをまとった囚人の苛酷な運命と、そして苛酷さを生み出した人間の業と愚かさとが滲み出る。見る者にはさまざまな思いが溢れ出るが、それを抑えて端切れだけを示す。一片の<もの>のその雄弁さ。そこから抑えがたい悲しみがゆっくりと現れる。
小淵沢の森にあるフィリア美術館は平和を一つのテーマにしている。同じような趣旨の美術館や記念館が各地にあり、歌人がよく歌にし、新聞などの投稿歌にも多い。しかしながら、歌が題材の重さを支えられないケースが多い。<もの>を生かすことを忘れて自身を露出させてしまうからである。『悲母像』はそこが違う。
十六歳九か月なる耳が聞きし玉音といふ人間のこゑ
一年生が往復びんたの訓練をさせられてゐたさういふ時代
何のための戦争だつたか 戦争をせぬ国になつた そのためだつた
戦時日本の狂信的な一面はいろいろに表現されるが、橋本氏は「一年生が往復びんたの訓練をさせられ」た時代とまことに端的だ。その端的さからあの時代の非合理が浮かび上がる。だから三首目の「そのためだつた」という揺るぎない説得力が生まれる。
石神井川をゆく花筏夕べには隅田の川の花に交じらむ
千登世橋をくぐりし電車は左折して面影橋でひとを降せり
娘二人それぞれ異る苗字もつと雛人形の頭撫でやる
こちらは暮らしの温感を感じさせる歌である。花筏は情緒的な題材だが、ゆったりとした流れの中で見つめられて、あるがままの人生的な味わいとなる。都電の動きもテレビ画面のように映像的で、しかも人懐かしさを帯びて読者を立ち止まらせる。三首目は娘さんを嫁がせた父親の感慨である。感慨をお雛様の頭をなでる行為に溶け込ませたところがとても魅力的だ。
どの作品も歌の長距離ランナーならではの包容力、と言っておきたい。これを機会にぜひ『悲母像』をお読みいただきたい。短歌はいいものだ、と感じてもらえるはずだ。