著者 | 来嶋靖生 | ||
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タイトル | 硯 | ||
出版年月/出版社 | 2014年7月/柊書房 | 受賞回[年] | 30回[2015年] |
分野 | 短歌部門 | 分類 | 作品 |
[略歴]
一九三一年旧満州大連市に生まれる。一九五一年早大短歌会から槻の木会に入り、都筑省吾に師事。現在『槻の木』編集発行人。歌集は『月』『笛』『硯』など十二冊。著書は『森のふくろう』『歌人の山』『窪田空穂以後』など。現代歌人協会監事。窪田空穂記念館運営委員。空穂会会長。
[受賞のことば]
思いもよらぬことで驚いています。身に余る光栄なことで、選考委員の方々にお礼を申します。学生時代から六十余年短歌に接してきましたが、まだ未知のことが多く、苦しみ迷っております。願いとしては、この美しい日本の国土に人として生まれ、生きてきた心を、少しでも正確に詠みとどめたい、またこの世にあって経験したさまざまにまつわる感情を形にしたい。そんなつもりで歌に携わっております。題名は以前、窪田空穂夫人から頂戴した硯に因みました。敗戦直後、物のない時に先師が使っておられたごく小さな硯です。
[作品抄出]
顧みて潤ひ乏し雨の降る今宵は飲まむ棚奥の古酒
敗戦後間もなき頃に使はれし先師が硯小さくつつまし
西に向き線路に沿ひて歩み行く山にあらねば道は平らなり
大津波に崩落したる岩礁と指差す見れば波砕け散る
家あらぬ町一面をおほふ雪白くかがやきなべては見せず
時過ぎて色の褪せたるもみぢ葉のそのありのまま水面に映る
吊されし千尾の鮭をふり仰ぐ口の尖れる訳も聞きつつ
香り立つ皿の焼鮎一瞬に骨引き抜かる姿のままに
戦へば土俵は広き海となり波の秀蹴りて飛ぶ舞の海
口を出でし言葉は耳へ伝はりて心に響くこれこそが歌
木挽町駆け回る子らの声聞こゆ外地育ちのわが知らぬ声
かくまでも人苦しむを省みぬ企業呪はむ国疑はむ
歌は論を立つる器にあらねども挑まむぞよき余白の隅に
さはあれど比喩は間接の域を出ずまして暗喩は奢りが臭ふ
書きかけてまた筆を置く今ははや書きて甲斐ある世にあらざらむ
未知の国の曲にあはせて詞を書きし明治の詩人幾人の才
凍死して膨らみし馬の亡骸の傍へを行けり通学の途に
学校に上がる前より覚えし名
墜つるより滅ぶがましと人のいふ指折りて思ふ滅びたる国
世に生きて怨みありやと人の問ふあらぬ筈なし何より戦
解らぬ歌も解ると思ひ論じたり若きわれらに恐れはあらず
誘惑に負くるなと空穂の言葉あり誘惑に負けし記憶はあらず
空穂逝き省吾もあらぬ世に生きて虚しからずや歌に執する
「語法正しかるべし」と書き一語だに妥協せざりし片山貞美
梅雨空に山は見えねど耳にあり山路踏み行く君が足音
いみじくも名付けしものか
旧友と呼びかはすごと次々に山の名唱へ飽くことのなし
山道は下りとなれり
立ち止まり花の名を呼ぶ
(掲載作選出・大下一真)