稲葉京子『椿の館』(2005年9月/短歌研究社)

著者 稲葉京子
タイトル 椿の館
出版年月/出版社 2005年9月/短歌研究社 受賞回[年] 21回[2006年]
分野 短歌部門 分類 作品

[略歴]
  一九三三年愛知県生まれ。五七年結社誌「砂廊」(主幹大野誠夫)
「中部短歌」(主幹春日井瀇)に入会。六〇年角川短歌賞、八一年現代短歌女流賞、九〇年短歌研究賞を受賞。第一歌集『ガラスの檻』(六三年)から『椿の館』(〇五年)まで十二冊の歌集を出版。現代歌人協会員。

[受賞のことば]
  昭和三十二年、縁あって結社誌に参加し、作歌を始めました。そして良き師、良き先輩との出逢いがあり、短歌の表現形式が次第にかけがえの無いものとして私を魅了するようになってまいりました。以来、短歌という形式を深く愛し続け、時には身体が律を刻んでいるように思うことがあります。自然や人を愛し、そこに生まれてくる、揺れるような心の内を歌ってきたような気がいたします。これからも命ある限り歌を作り続けたいと思っております。すばらしい賞を頂き光栄に存じます。選考委員の皆様に感謝申し上げます。

 
[作品抄出]

犬は花を見ずとも花を見し人の心の機微を味はひてゐむ

昼ふけの昏き空より来し雪は紅梅に降り白梅に消ゆ

年月はむごき手をもてわれの子を四十となせり粉雪降る日に

茫々とわれを降りこめをりながら連れて舞ふ雪別れゆく雪

ここはさねさし相模の空の冬のあを帰る燕を待ちゐるところ

時雨してくまなく濡れてゆく木草もとよりわれも木草の連衆れんじゆ

薄白む夜明けの闇を切りわかち一騎五、六騎オートバイゆく

煉瓦坂に小さく躓き月光とネオンと闇を攪拌したり

街灯の光の領に生き急ぐ群衆のごとき雨見えてをり

母の樹の根方に落ちて芽吹くべき団栗容赦なく踏まれをり

点々と路面を濡らす雨の色を黒と思ふよ夏のはじめに

甘藍の畑にれたる初蝶か逢はむ逢はむと発ちてゆくらむ

夏の雲われが行きたることあらぬところを歩む子らの長すね

拡大鏡で見ればおそろしきことならむ蟻をつぶしてゐる昼さがり

白き蝶ひつたりと翅を合はせたりかくて定まる定型の律

歩まざる菊いづこより花舗に来てこの夕暮れをわが部屋に咲く

君の生わが生つくづくいとしけれちりちり盡きてゆく手花火よ

年月の橋を渡れば人に寄り苦しと言はずなりたるわれは

ふと越えし境とおもふ今日よりは軽羅一重のきぬをまとふも

次々に子を発たせたるがらんどうの母のやうなる駅の夕焼

わが知れる源氏はスーツ姿にて舗石道を歩みたまへり

あのやうな人になりたかつた私を人間になりたかつた犬が見てをり

春昼の光静かなり由もなくうづらの卵を買ひて帰りぬ

かがまりて拾ふ椿にかすかなる重さにありててのひらを押す

わが秘むる感覚ひとつ足下あうらより次第に樹になる遂に樹になる

どの病ひで死なせますかと訊ねゐる使ひの者が必ずをらん

みづからのために夜半に湯をそそぐ湯をそそぐ音いたくしづけし

暗黒の中を暗黒がうねる音おのれの道を風も探すか

縛されてならぬ心をつつむなり幾重の絹と幾すぢの紐

歩くとも歩かずともわれを牽きてゆく年月といふ力を知るも

(掲載作選出・雨宮雅子)

カテゴリー