近藤芳美『祈念に』(1985年8月/不識書院)

著者 近藤芳美
タイトル 祈念に
出版年月/出版社 1985年8月/不識書院 受賞回[年] 1回[1986年]
分野 短歌部門 分類 作品

[略歴]
  大正二年、広島生れ。東京工大卒。「未来」主宰、現代歌人協会理事長。歌集「早春歌」ほか。「黒豹」で第三回迢空賞受賞。

[受賞のことば]
  少年のころから短歌を作り出し、多分、七十歳くらいになれば作品に自在が得られるのではないかと思って来ましたが、その年を過ぎてなお迷妄はやまず、いたずらな模索と自己嫌悪とを繰り返しており、今回の「祈念に」もまたそうした世界を脱するものではありません。そうした一冊のために賞をいただくことに恐縮しています。このような賞のために、必ず背後に多くの方々の好意のあることを知っており、それに感謝しなければならないものとも思っています。

 
[作品抄出]

あけび蔓芽吹けばにわかにみどり濃く日は澄み透る春夕かげに

赤彦に出逢いし日よりの長き生知りて思えば五味さんも亡き

吾ら遠く戦争に生きし感傷に来り会いたりき街の暗かりき

幾夜ときなき雨ようやくに冬のしぐれ老いて読むべきものに灯ともす

虚しければ心のがれゆくひとりのみの地点というか地点はあらず

「詩」が思想が単純なることばであるべき日滅びてはならぬ人間の祈念

世に生きし思いかたみに吾ら知る夜をまれにしてバッハの一枚

あけびのみどり日に濃き窓の空のにごり君あらずまた君に書くこと

晩年をしずけしといえともに見しひとつの時代その幻影に

さくらの下君の柩の出ずるときを待ち佇めば日はひと日澄む

さながらに露は降るまでに夜空蒼く近付くというかげなき彗星

ひかり放ちひらかむとする充実に月下美人の香は満ちわたる

人の不信新たに妻とまた知らむ寂しき日なり朝の電話に

妻と出でて今宵まぎれむ峡の霧に蛍火いくつ流れたゆたう

鳴き澄める河鹿の声のいつまでか未明に一夜の梅雨荒れて降る

白鳥座さながらかかるころの夜空アルビレオと呼ぶ二つ副うひかり

アルビレオ連星と呼ぶ並ぶひかり小さきは緑のまなきまたたきに

少年の記憶の彼方の夏の星座移り傾けば月も沈みつ

見詰めいむ日の寂しさを老いといわず互みにありし明けのまどろみ

吾ら分けし戦争の青春の残るひとり来り見し死の今もひそかなる

衰えてもの言えばそのことば聞くたどたどとみな人の死のこと

まなこ拭くだけにわずかに動く手を目守りて母よ寂しからむよ

覚むる意識覚めざる意識行き戻る老いのはての日母なれば添う

オリオンのつるぎのあたりひかり白き大星雲の霜夜くまなき

二夜のみ救急病院にありし死を君に思わむ街ただ凍る

歴史の問い人間の問いと書きて記す生きて頹るるな老いの世界の

鷺草は今年初めての花持つを一夜白布の母の枕べ

旅新たに待ちて絵具をととのえむ思い忘れいしさきわいに似て

遠く返る淡きよろこびに絵具あつむ旅にし行かむ秋のイベリア

留守を寂しむ母はあらねば旅に出でむ妻よロルカの白き村と町

(掲載作選出=馬場あき子)

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