正木ゆう子「言葉の体幹と筋力」

著者 正木ゆう子
タイトル 言葉の体幹と筋力
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 41回[2026年]
分野 俳句部門 分類 選評

 首尾ゆるみなく、隅々まで神経のゆき届いた句集である。故に何度読んでも発見があり、書き抜く句が増えていった。
 心を捉えるのは、先ずは「何でもないこと」を詠んだ句。たとえば。
  落葉搔く音のみ谷戸を下り来る
 こういう巧さは、作句の苦労をともにしている者にとっては、たまらない。大人の句、玄人の句だ。平明で言葉少なく、しかしなんと情報の多い句か。早朝の静けさの中、作者はひとりまだ休んでいて、耳だけ澄ましている。寝室は樹木豊かな坂に面し、早起きの人が、坂の上から落葉を掃きながら下ってくる。なんでもない人生のひとこま。かと思えば、
  愕然と秋至りけり関八州
の堂々たる韻律。俳句の格調ということがよく言われるが、格調とは、しなやかで強靭な韻律のことである。韻律の豊かさがあってはじめて、短い俳句は深い気息を抱き込み、はらわたとすることができる。韻律は求めて得られるものではなく、長年鍛えられた言葉の体幹·筋力のようなもの。『素秋』にはそれが自然に漲っていて、現俳壇では随一ではないだろうか。
  利休梅腹帯ここに賜りし
 この句にしても、「むかし腹帯を賜った寺社に、利休梅が咲いている」という散文が、俳句の韻律に乗ると、こうなる。しかも下五の過去形「し」には、数十年の時の流れが含まれており、さらに今は一人となった感慨もうかがい知れる。
   枝豆を色よく茹でて一人とは
 一人心こそは、『素秋』の底を流れる水音である。しかもこういうとき、彼女は軽く詠む。「とは」が曲者だ。「一人とはそういうもの」とも、「こんなときに一人だなんて」とも読め、読者は解釈の幅を遊ぶ。
 言葉の持つぶれのない体幹と低い重心ゆえに、作者は軽やかに力を抜いて言葉を楽しむ。
  見付けたり避暑の極みの粗衣粗食
の、「粗衣粗食」のユーモラスな使い方とか、
  買初の一帖二管三十葉
とか。また、
  白和へに酪の香ほのか柿の秋
の下五を、食卓にとどめず、「柿の秋」として空間を開いているところなど、指先まで神経の通った美しい所作を見るようだ。
『素秋』は二〇一九年から二〇二四年までの作品を収めているので、コロナ禍の数年がまるまる含まれる。
  五月闇顔無き人とすれ違ふ
  根の国の声洩れきたり梅雨入穴
  初蟬の鬼哭啾々たる今年
 コロナ禍という言葉を入れず詠んだ、それと思われる句を挙げてみると、『素秋』の寡黙さがよくわかる。同時に、時を経ていま読むと、あの特殊な時期が普遍性を以て表現されていて、記録の域を超えている。
 言葉が軽くなりつつある今、『素秋』の強靭な韻律世界は、俳句形式の誇りである。

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