時里二郎「落下と飛翔の詩学」

著者 時里二郎
タイトル 落下と飛翔の詩学
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 41回[2026年]
分野 詩部門 分類 選評

 この世界を統べる「重力」という抗いがたい原理。物は言うに及ばず、論理という重力、倫理という重力、或いは世間も歴史も価値観も重力のくびきに支配されている。
「「失踪」⸺影すら残さずに、きれいさっぱりの「いない」が在る。埃とうなだれた花束と、更新されない明日の思い出が空間を埋めてゆく。繫いだ手を失したのはおれだろうか、おまえだろうか。肉体はおのが意思とは無関係に重く、鳥さえ墜ちる球形の絶望に果てて見上げる「空中」。さんぽにゆきたいな。そのままその次へ、帰らない旅に出たいな、」(「風船」)
 琵琶湖畔からヘリウム風船を使って太平洋の横断飛行を試みて消息を絶った「風船おじさん」のことなどもう誰も覚えていない。あるいは身元不明で引き取り手のない行旅死亡人欄から紡ぎ出される男やホームレスの、どこまでも哀切で、しかも非情極まりない飛翔と落下の人生の顚末。
 小林坩堝の詩は、そのような、歴史や世間の「重力」に打ちひしがれ、時代に抹殺され、忌避される身体に執着する。それが詩の言葉を衝き動かす詩の原理だ。
 言葉もまた、文法や意味の重力に従っているが、詩人の言葉は、その人物を見つめる話者が、時に人物に乗り移り、両者の自在な交換が独特の語りのリズムを生み出している。また、重力に翻弄される人たちの魂と共振する熱量が、韜晦や反語を織り込んだ喚起力の強い文体の底に流れているのだが、それが言葉の重力に揺さぶりをかけ、落下と飛翔をめぐる眩暈のような擦過の夢を開いてみせる。
 小林坩堝は、時代や歴史の重力にいとも容易く打ちひしがれていく、その人間存在の弱さや脆さが、「落ちる」ために「飛ぶ」という、「落下」に込められた身体の夢の在処を生み出していることを見出していく。理不尽な人生への抗いも空しく落ちていく彼らの存在の危うさが、生きることの本源的な力の源泉なのではないかと。落ちることが飛翔のエネルギーを生み、それが反転して落下の夢という恩寵を育むのだと。
 その手際の見事さは、第一詩集『でらしね』の衝撃を想起させる。小林がまだ生まれてもいない大正・昭和前期の時間を操り、とりわけ歴史と虚構のあわいに生きる「魔子」という「快楽球体関節人形」が搔きまわす時空の波動に覚えた眩暈のスタイルを鮮やかに思い出すのだが今度の詩集においても、ヘリウム風船や一日ぐるぐる回り続ける老馬や、アヒルの「ダック」などの表象を自在に繰り出し、実際に起こった事件や記録をリアルなテクストに織りあげている。
「序詩」が詩集の最後に据えてあるのも、重力に抗う彼女の言葉の構えだろう。その最終行。
「嬰児の産声が断末魔の叫びによく似ていることを、われわれは知っている。」
 私たちは生まれた刹那に、すでに落下の夢の呪縛に囚われているのではないか。この問いかけこそが、この詩集を貫く通奏低音なのだ。

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