著者 | 宮 英子 | ||
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タイトル | 今日的な視座 | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 17回[2002年] |
分野 | 短歌部門 | 分類 | 選評 |
第十七回詩歌文学館賞候補歌集アンケート九冊の中から、本年度選考委員が候補歌集を回答し、左の四冊が残った。
玉井清弘『六白』 来嶋
竹山広『全歌集』(射禱)来嶋、永田、宮
清水房雄『桴遊去来』来嶋、永田、宮
森岡貞香『敷妙』 永田
結果的に見て、候補は竹山広『射禱』と清水房雄『桴遊去来』に絞られた。永田氏、来嶋氏は、二冊を読みくらべた結果、『桴遊去来』は、清水氏の前著『老耄章句』(第22回現代短歌大賞)の延長線であり、
『射禱』は今日的で、やわらかい表現で現実の奥のものを差し示すところが魅力的だと言われた。宮は、今回は二冊同時受賞は出来ないか、などと提示した。結局、三人とも竹山広著『射禱』推薦ということに落付いた。
竹山広[全歌集]には『とこしへの川』『葉桜の丘』『残響』『一脚の椅子』『千日千夜』『射禱』の六冊が収められているが、『射禱』だけが新しい歌集として対象となる。
竹山氏は昭和二十年、長崎の浦上第一病院に入院中、長崎に原子爆弾が投下され傷を負われた。『射禱』は第六歌集であるが、第一歌集から鮮烈な体験をもとにくりかえし詠まれてきたことがらの集積の上に立つ歌集である。いわゆる原爆体験を根底に置く重い歌集でありながら、竹山氏は声高な詠み方をしない。
強大にして如何ともなしがたきアメリカを好きといふものはいふ
天変は
これは二〇〇一年九月十一日の一年も前に詠まれた作品だ。全く予言者のようにおそろしく鋭いまなざしだ。
美しくしつらへられし爆心の土に手触れむかなしみも来ず
竹山氏はありきたりの形骸的なものを好まない。自然詠にもやわらかい感覚で、しかもするどく芯を突く歌が多い。
ぱらぱらと咲きたる梅に懸命のこころ見えたる一旬は過ぐ
二十世紀末路の空にのぼりゆく死体を遺しきたる心臓
暗黒の雨をぞおもへ三宅島の無人の家をおしつつむ雨
懸命に生きる竹山氏は、自然界の一景物たる梅にもその懸命さに共感する。梅を等身大に相手にする。二首目の心臓移植という医学をひとつの現象としてアイロニカルに表現する。また三宅島へのひろやかな、そして静かな心。どの歌も騒がしくない。竹山氏の宗教によって支えられている博い心のあらわれだ。
『射禱』は、「カトリックの信者が日常唱える特別に短い祈りのこ
と」。また、「日の折々、神への讃美や、祈願や、時には罪の赦しを乞う呻きのような一言を、文字通り天に射込むように発する祈りのことである」という。この一冊の歌は、個の感懐を越えて、未来に向かうするどいまなざしに満ちている。私は短歌にかかわって、いまこの『竹山広[全歌集]』に会えたことをこの上なくよろこびとするものである。