著者 | 大峯あきら | ||
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タイトル | 日本の自然は本当に美しいのか | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 31回[2016年] |
分野 | 俳句部門 | 分類 | 選評 |
今回は、茨木和生氏の第十二句集『真鳥』が受賞作に決定した。選考委員の真剣な意見のやりとりの後に、全員が一致して推すことができたことをよろこんでいる。
「あとがき」に茨木氏はこんなことを書いている。「七十歳も半ばを過ぎて、ますます自然をありがたいものと思うようになった。しかし、このところ自然は人間の手によって荒らされていることを嘆かないわけにはいかない。(……)/日本の自然は本当に美しいのかと問い直してみたい思いでいっぱいである。せめてもの罪滅ぼしでもと思って、那智の滝水を守る、吉野の桜を守る募金活動の輪をもっと広げることに力を入れたいと思っている。自然を心底ありがたいと思って句を詠める日の来ることに微力を尽くしたい。」
こんな短かい文章の中に、「自然をありがたいと思う」というさり気ない言葉が二回も出てくることに注目した。近ごろの俳壇では滅多に聞けない言葉だからである。世界平和のための俳句とか戦争に反対する俳句とかはよく言われたりするが、自分は自然をありがたいと思って句を作っていると、何の気負いもなく言う人は他にいないのではないか。
「ありがたい」という言葉は、今日ではほとんど中味のない常套語として日常生活に通用しているが、茨木氏はそうではなく、語源に近い意味でこれを使っているのである。それは、われわれが自然の中にあることが、決して当り前でも偶然でもなく、驚くべき不思議な出来事だという意味である。『真鳥』の頂上を形づくっている諸作はいずれも、茨木氏のこのような感受性から生まれているように思われる。
潮速く流れてしづか日の盛
真夜中の書斎に聞こえ狐鳴く
その樹下に鹿立つ夜の山桜
地震にて落ちし大岩日の盛
畦焼いてゐる人に声掛けに行く
奥降りに濁れる流れ守武忌
法隆寺裏の流れに濁り鮒
自分と対象との間に距離がなくなったところで物とじかに取り引きしているから、いわゆる写生句か抒情句かというような分け方は無意味である。俳句の批評や鑑賞は、今日でもこの二つの既成概念にこだわり過ぎるような気がするが、これらの作の魅力は、そういう分け方そのものを無効にするようなポエジーの力なのである。
蛇も迂闊われも迂闊や蛇を踏む
大峯に立つ屈強の雲の峰
落花せず闇に大揺れしてをれど
年の暮採餌に真鳥飛び来たり
一句目は、すこぶるダイナミックで衝撃的なユーモアを伝える作である。思いがけなく蛇を踏んでしまったのである。踏んだ自分が迂闊だったのはむろんだが、踏まれた蛇の方もこれに負けず迂闊であった。踏んだ自分と踏まれた蛇という区別がなくなった一瞬、蛇と自分とは、同じ夏野に生きている友だち同士である。