岡部桂一郎『<ruby><rb>一点鐘</rb><rt>いってんしょう</rt></ruby>』(2002年11月/青磁社)

著者 岡部桂一郎
タイトル <ruby><rb>一点鐘</rb><rp>《</rp><rt>いってんしょう</rt><rp>》</rp></ruby>
出版年月/出版社 2002年11月/青磁社 受賞回[年] 18回[2003年]
分野 短歌部門 分類 作品

[略歴]
  一九一五年四月三日神戸生れ。二十二歳「一路」入会後一時中止。終戦二年後上京。国立習志野病院薬局長。やがて「一路」退会「工人」創刊。宮柊二の手紙で山崎一郎・葛原繁ら集り「泥」の始まりとなる。
「黄」「寒暑」いずれも又消滅した。歌集『緑の墓』『木星』『戸塚閑吟集』。ずっと無所属。

[受賞のことば]
  この四月で八十八歳の米寿となる。長生きに茫然の思いがする。若い時から家族より逃げたくて、下宿して通学するという、一人の楽しさを味わっていたいい加減な生きざまだったが、老いてからのこの十年、次第に「時間」という延び縮みする不思議なものに心ひかれるようになった。私が死んでも永遠に続く「時間」という物差しが、いま一番生き生きとした「謎の顔」をみせている。このたびの賞のよろこびもその中の一つである。

[作品抄出]

かすかなる冬の愁いはふるさとの泥の干潟に日を拝む蟹

一円のアルミの硬貨落ちている畳の冬陽路傍のごとく

  六十四年一月七日二首
濠端の水に浮べる鴨二つ昭和終りしときの沈黙

浮き浮きと団扇うちわ太鼓の音きこゆ皇居二重橋前広場より

うすずける日は五月より六月へ向いて越ゆる昼顔の花

柿の木を人来て切れり柿の木の影がのこった日曜の塀

まどかなる晩春の月押し照りて街川にひと芥捨てたり

菜種梅雨車窓に朝日新聞を広げる人の顔鰈なり

両国回向院境内底びかりして歩みくる黒猫ひとつ

ここは故郷の橋ならねども旅人の渡りしあとを木枯わたる

浄瑠璃の寺子屋の段口ずさみ文士近松秋江しゆうこうが来る

ストーブの炎を見つつ考える七畳半の部屋の夕ぐれ

大正のマッチのラベルかなしいぞ球に乗る象日の丸をもつ

辞書と辞書に胴を手ひどく挟まれし糊のチューブを救い出したり

十一面観音菩薩踏み出だす足の親指やわらかく

渡り鳥空にうかべて日没の山梨県立美術館ある

バス停は中村しかし又の名をくらやみ坂とも人言いまする

「あなた長男ではありませぬか」参ったと額を叩く寄席よせ台詞せりふ

ビルとビルふたつをつなぐ空中の歩廊に枇杷の花を提げおり

元町のポンパドールに降る雪は一番電車通る頃止む

中仙道奈良井を過ぎてさしかかる峠の雨は首濡らしけり

別珍べつちんの赤い足袋はく妹よ幼なく遊ぶ世のえにしあり

不思議なる音して去年こぞの雪が降るきょーん、きゃーん、きゃーん、きょーん

みちのくの火の見櫓はみちのくの雲ひき連れて夕暮れてゆく

この橋は木の橋なれど名前あり人の渡れば木枯らし渡る

人はなぜ沈みゆく陽をみつめるかたらちねの母教えたまわず

魂までは売らぬと君はいうけれど買う人のない魂もある

しんかんという音のなけれどわが心しんかんという月の音きく

稲妻は撓う薄と寐たという薄は寐ぬといいし江戸の夜

一陣の風にたちたる塵ほこり静まるまでのコスモスの花

(掲載作選出・永田和宏)

カテゴリー