| 著者 | 井上弘美 | ||
|---|---|---|---|
| タイトル | 眼前凝視の迫力 | ||
| 出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 40回[2025年] |
| 分野 | 俳句部門 | 分類 | 選評 |
液晶の画面に透きて春の蠅
殺処分の万羽の鶏は花芒
これらの作品が捉えているのは、生きものの命であり、歪な現代である。「液晶の画面」は文明の象徴であり、透き通るような翅をもつ「春の蠅」は一顧だにされない。「殺処分」と決まった「鶏」は、「花芒」のように、揺らぎつつ殺され、土中に埋められてゆく。「花芒」の揺らぎは、その任を負う人々をも思わせてやるせない。
『荊棘』は現代の高度な社会と対極にあるものを軸に、世界の辺境の地へも足を運び、リアルに対象を見つめた句集である。動植物を中心に、自身が出会った対象を鋭く凝視し、様々な手法で切り取っている。
上潮の泡にまみれし浮巣かな
海鳥の骸のまとう夜光虫
大鯉の傷に食い込み源五郎
ランボーも月の輪熊も撃たれたり
鮫撃つ銛舟より長し梯梧咲く
前三句は人間が関与しない動物の世界、後の二句には動物の命を奪う存在としての人間が捉えられている。作者は、加害者としての人間、被害者としての動物、という単純な構図で世界を見つめてはいない。その眼差しは、いのちの現場を捉えているのであり、眼差しは過去へも向けられている。
夕焼は鯨の骨の背後より
熊突の装束残し村消えし
赤紙も遍路も来たる丸木橋
第一句には「南太平洋の捕鯨基地のあった島」と前書がある。「夕焼」は鯨の血に染まった海のみならず、命を張って闘った捕鯨船の乗組員をも思わせる。「熊突の装束」とは如何なるものか。その信仰も文化も「村」とともに奪われたのだろう。
長城の果は熱沙にまぎれおり
ヒマラヤを火群となせし初日かな
大凧の骨の刺りし砂丘かな
台風のまん中に垂れ自在鉤
スケールの大きさという点でも、作者の視点は独特だ。「長城」も、その果ては﹁熱沙﹂と同化し、初日の出に染まる「ヒマラヤ」は「火群」となる。「砂丘」と「凧の骨」、「台風」と「自在鉤」など、大小の対比による場面構成も鮮明だ。
その間にも星あまた死す追儺かな
海底に熱水湧きて雛祭
「追儺」や「雛祭」という行事季語を、宇宙空間や地球規模で生かしている点にも瞠目した。私たちに見えない所でも、時は移ろい、自然は盛衰を繰り返している。
宇宙なお膨張しつつ蚊の声す
隕石孔地球にあまた桜咲く
マグマ溜の上かもしれず緋桃咲く
火口湖の青き円盤鶴帰る
大自然の営為を、動植物を季語として捉えた作品だ。膨張する宇宙は「蚊の声」とともに描かれることで、より不可思議で神秘的だ。「マグマ溜の上」かもしれないことで「緋桃」は一層美しい。「火口湖」は地球の歴史を物語る。その「円盤」の上を飛んで、北帰行する「鶴」の姿は壮観だ。
『荊棘』は、即物的な対象把握によって、現代を活写する。その大胆で、確かな眼によって、命の総体としての現代が顕わだ。
