著者 | 川野里子 | ||
---|---|---|---|
タイトル | 奥行ある確かな佇まい | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 40回[2025年] |
分野 | 短歌部門 | 分類 | 選評 |
バードバスの水は澄みたりをととひのかみなり雲の水を飲むハト
中根誠氏の『鳥の声』は何とも言えない良い空気を湛えている。タイトルの通り鳥たちと呼吸を合わせて生きるかのような澄んだ柔らかさが基調にあるが、同時に一朝一夕にできるものではない一人の人間の奥行ある確かな佇まいがある。
このあたりまでは「おはやう」、町内のこの先「ございます」を
付け足す
仲良しの嫁さん同士老いたれば車椅子にてただすれ違ふ
豆腐屋の前を素通りしただけで少し惚けたといふ噂たつ
長く暮らし共に老いてゆく近所との関係は、深い人間理解となり独特のユーモアを生んでいる。老いは友情をも遥かに超えるのであり、また老いを介して見守り合う関係が息づき続けもする。ここには町の気配と時間とがたっぷりとあり、そこに沁みるように存在する生を感じさせる。このように中根氏の人間観は関係性のなかに見出されており、常に揺れ、息づき、共にあるという開かれたものだ。
それは、亡き妻との関係にも表れている。
六畳の傾く部屋に共寝せる妻ありき今も傾ける部屋
七十代とおぼしき妻が夢に出で廊下に転ぶ久方ぶりに
後姿の似るといふこと切なくて銀杏落葉の道に追ひ越さず
これらの作品は亡き妻を偲ぶというより共に生きているかのようだ。亡き妻は姿を消したが存在としては濃密で、軽く詠われているゆえにその軽さが読者の心に沁みる。
同時に、この歌集の重みとなっているのが、かつての戦争と共に生きている感覚だろう。
応戦のやがて止みぬとある父の日記の「敵」は上海の兵
スポーツへ昇華しきれずむき出しの戦意ありたりオリンピックに
ウクライナへの露国の侵攻映像を見ればはるかな南京陥落
ロシアによるウクライナへの侵攻が日中戦争と重なる。ウクライナでの戦争は時事詠としてではなく、自らの裡に終わることのない戦争としてあるのだ。
中根氏は、評論の分野でも永年戦中戦後の短歌の問題に取り組んでこられ、『兵たりき―川口常孝の生涯』と『プレス・コードの影 GHQの短歌雑誌検閲の実態』は﹁平和﹂の影となって光の当たることの少ない戦中から戦後への時間を照らした重要な評論である。
こうした仕事の厚みは短歌作品でも奥深い世界への理解となって表れ、重層的で豊かな生のありようをたっぷりと見せてくれる。
朝五時と六時のニュース同じにてその間およそ国は変らず
パン屑を鳥にやりたくない朝もあるのだ難民船難破して