朝吹亮二「詩の死」の物語

著者 朝吹亮二
タイトル 「詩の死」の物語
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 40回[2025年]
分野 詩部門 分類 選評

  第40回詩歌文学館賞の詩部門は、三人の選考委員全員一致で中尾太一『フロム・ティンバーランド』に決定した。
  中尾太一は第一詩集『数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集』以来、行の長い詩句をつらね、その詩行を高速で突きすすんでいく譬喩をかさねて新しい抒情詩を創りあげてきた。
  その後、根底にあるものは失わずに、少しずつその詩の姿は変わってきたが、前々作『詩篇 パパパ・ロビンソン』から大きな変貌を遂げる。神話的な物語の創造である。何人かの登場人物を設定し、その語りがそれぞれ一篇の詩篇になっていて、さまざまな位相の語り(詩篇)が「詩」の明日へと構成されていく。
  前作『ルート29、解放』のロードムービー的な物語を経て、恐らくそこで描かれた国道の行きつく先の地が舞台となるのが本受賞作『フロム・ティンバーランド』である。
「家のなかには風が吹いていた/外は無風だった/いや、荒れ狂っていた」と序詩にある、この森のなかの一軒家がまず舞台となる。この家から見える松林での師弟の死が語られていく。詩の師弟ということではなく、師弟関係が詩そのものであるような二人の死。死体を家に安置する。この家は「もぬけの殻の詩」である。
  このように始まる本詩集は『詩篇 パパパ・ロビンソン』と同様の主題、詩とは何か、いま詩は可能なのか、詩は滅びているのではないのかといった今日の詩にとっては前提となるような、そしてまた究極となるような問いを提示し、その周縁を語っていく。
  ティンバーランド(森林地)という言葉も前々詩集から登場していた。詩とイコールになるような森のことだ。
  その物語がこの詩集に結実する。エル・ノウ(知識だろうか、それとも否だろうか)と名づけられる語り部の「僕」。そして遺体をエル・イド(無意識だろうか、それとも生と死を結ぶ境界としての井戸だろうか)と名づける。多くの神話がそうであるように、このように名づけることで物語は始まる。死後から、欠如からしか書き始められない物語というものがあり、いや、物語の本質とは恐らくそういうものであり、ここでは生者も死者も登場するが、生者もどこか亡霊的だ。前々作にあったどこかいい意味でゆるいというのか、散文的というのか、ほのぼのとしたユーモアのようなものは本作では影をひそめ、悲劇的な様相が前面にでてくる。今日の状況をみればそれも必然であろうか。行分け詩で書かれているところもその悲劇性を一層強めているといえよう。行の渡りもゆるいところはなく、詩の死から始まる「物語」ではあるのだが、散文ではなく詩でしか書けないリズムや「抒像」があり、今日の行分け詩の果敢な挑戦でありながら、見事な傑作として結実している。

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