著者 | 中尾太一 | ||
---|---|---|---|
タイトル | フロム・ティンバーランド | ||
出版年月/出版社 | 2024年10月/思潮社 | 受賞回[年] | 40回[2025年] |
分野 | 詩部門 | 分類 | 作品 |
[略歴]
一九七八年、鳥取県生まれ。二〇〇六年思潮社50周年記念現代詩新人賞。詩集に『現代詩文庫 中尾太一詩集』、『ナウシカアの花の色と、〇七年の風の束』(鮎川信夫賞)、『詩篇 パパパ・ロビンソン』、『ルート29、解放』(映画『ルート29』原作)など。
[受賞のことば]
わたしのなかに生まれたコトバの森。そこをとぼとぼと歩く、傷み、疲れ切った、寂しい人影があります。どうやらわたしたちの影のようです。すると、その影が恐怖と不安に襲われながらも、今日という時代・時間を経めぐり、どこかに流れ着こうと意志しています。わたしもその影たちと一緒に果ての場所に向かおうとしています。
未曾有の世界を生きるわたしたちのうちに兆すもの、兆してほしいものを﹁書いた﹂のではなく、一心に「想った」。そこにわずかに現れる「未来」を出典としました。ありがとうございます。
[作品抄出]
ⅴ そよ風として from Timberland
そこに蓄積した感情の全量が体の速度を無化させていくように
Kola の言葉は心の広さを精いっぱいに表現しながらここに揺蕩い続ける
それ自体が限界と反復を意味する地平線に自己の終わりを告げる息が交叉して
命の方位を一心に探す有機の想いが世界を覆っていく
それが人の気配に触れては気流となり、ふたたび言葉となり
幅員を広げるKola の体の幾層で温まっていく小さな天球が人体の襞にいとまを告げている
象嵌のように精密な別れの永遠がほんとうは誰の生誕を祝しているのかを僕は知っていた
そしてここは知らない者ばかりの、いない者ばかりの世界だった
雪が降り積もっていた
上空は荒れ狂ってなどいなかった
それがめぐり来ることを心待ちにして僕が生きていた春を世界がいっとき閉じ込めている
ただそれだけのことだった
だからKola だって夜が明ければ組み直す地形図の上で
心と体の傷には似合わない旅の準備に勤しんでいる
だけれどここからは伴う人も、自分を支える棒切れもなく
僕たちは言葉だけでいくというのだろうか?
いや、ひとつの音楽のはじまりを想像することしか僕たちには出来ない
それを僕たちは言葉ではないもので誰かに伝える
「わたし」という比喩が空を見ながら穿つ自分の体によって
自分の影を表現していく
そうやって僕のなかで燃え尽きていく自分じしんの
この世界における残滓を奪うだけの死など、恐れることはないと
今、飛翔を試みるイヌワシの大きな翼のように思う
悲しみの後の物語が忘却の語り方の問題であるとしても
新たに古くする語りは僕の内側を覆し、隠れたはずの僕を闡明していく
それがどんなに喜ばしく、それこそがどんなに悲しいことか
僕たちは人の懐かしい者になっていく
ちょうど君からもらった万年筆についた、自分じしんの皮脂のように
だけれどそれを僕はどのように、これからも知らないのだろう
諸空の粒子である時間がひとりひとりに愛着して
僕たちが命と邂逅するのであれば死などはなかった
だけれどもし、死があるとすれば
僕たちは創造と対をなす生命のなかに宝物を抱え過ぎてもいるのではないか
吸う息が触れる記憶を内なる時間で折り返して
吐く息に含まれる身体の意味を宇宙に投げかける
「それが言葉なの」
僕への別れとなったKola の声が
「エーカー」の被膜をゆっくりと地上に降ろしていく
それは伐採の跡に現れる、かつてあった木々の復元されたかたちと影であり
いいえないことと知りえないことの交換がそこでなされる
僕たちの魂の地形だった
感嘆詞の起源のような諸空の一点がおのずから集中していく
「抒像」の息吹があたり一面に広がり
思い起こすことの無数が無数になる場所に世界という現象がはじまっていく
億千万のそれぞれに喩えは影としてもう内に付着している
みな、心の老いには似合わない旅へ出かけていく時間だった
新たに古くしていく命の直さの棚から棚へ
文から文へいく者の
死の向こうが見えたのもこの世界だった
みな、なくなった国のたった一人の住人として
自己の扉をもう一度開ける
そこに隠されている世界があるというのではなかった
水面に広がり切った波紋の上にふたたびする水の素描
その中心に濃く滲むような、これから熟していく果実の様々な色があって
僕の国ではそれを﹁季節﹂といったのではなかったか
実りといえば秋の落葉のような死者が僕の瞳に映ることさえもそうなのだった
一夜が明ければ僕はもう一人になっていて
あるいはまだ一人にしかなっておらず
そこで僕は比喩に潜行する血の意味をまだ考えあぐねている
「シンヨウとは何を教授する者だったのか」
いつも遠くで死んでしまう猫が僕の国の縁を走り回っている
ときどきは団栗のように見える瞳の奥に
そこに映るものすべてを永遠に住まわせながら
自分じしんはこうやって僕の国に遊びに来ているのだ
そして「フミンや君だっていったい何を教わっていたんだか」と
遊びまわるだけで尽きる生の、たった数秒
そのまた数億分の一秒のあいだだけ、笑顔になったら
血の前に立つ僕たちの生と死が、あちらとこちらで入れ替わる?
その現象を一語の動詞で捕らえるために生まれたのがボク?
なんだかおかしくてね、とシャロンに似た猫は思うのだ
今度は魔法のように生まれてみたい、とも
瞳の前の中空を、右と左の手で搔っ攫い
だけど悪夢を収めたのはどちらの手なのか分からない
はじめから凄惨なことなどなかった
数え切れないくらいに重ねた苦しみの記憶を直く思い起こす朝は風が吹いていた
影と在る、そんなことを君に告げるのは何度目のことだろう
ここは何もない場所だ
たとえば切り株のすぐ隣に芽吹いている若木とか
辺り一面に舞い落ちた枯葉とか
僕の国にはきっともう、何もない
可能性という硝子の韻律が今日を傷つけながら去っていく
この一文を「稜線」と名付けるための相槌を僕とKola は最後に打って
もう言葉を生まない決心をした世界を
僕の国は訪っていく
名前のない畝と畝のあいだを星の定まりのもとに歩き
自分の血の前に立ってみれば
はじめから凄惨なことなど、何もなかった
それにしても昨日
あの沢から跳ね上がった小さな魚の煙るような飛沫を浴びていたのは
ほんとうは誰だったか
雪が止もうとしている
倒された木々の内側を走る水を吸い上げながら
灰色の雲が近づいてくる
そこに生まれ続ける無数の未知に覆われて
みなと一緒に影を失っていく僕の言葉は
赤い血が流れたあとにようやく生まれる季節のめぐりを待ちきれなかったから
死んでこそ動く舟に乗ることはできないだろう
それでもなお
舟の舳先から滴っていく惹き合う力の現身が
森のどこかで僕の国の名前を探し続けている
それはたとえば「親子」だったのかもしれないと
師弟のことを考えていたのだが
それぞれが消えていった場所の全き正しさゆえに
僕の国には誰もいない
ティンバーランドの頰を
それはかすかに撫でていった
(掲載作選出・朝吹亮二)