岡本眸「選考を了えて」

著者 岡本眸
タイトル 選考を了えて
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 18回[2003年]
分野 俳句部門 分類 選評

  句集『長江』は平成七年から十二年までの約三百九十句を収めた、作者の第六句集であり、主流をなすものは句集名ともなった「長江」を中心とした中国旅吟である。

驢馬に乗る子に長江の日永かな

  長江、大江とも呼ばれる中国最大の川、揚子江沿岸の景である。驢馬、子供、長江、すべてが「日永」の季語にうっとりと包まれて眩しい。

三峡すぎ千里同風花菜の香

  古来から航行の難所と云われる山峡を通りすぎ、ほっとして岸辺の菜の花に目を細める。中七に「論衡」の中の一語を引いて、中国の平和繁栄への喜びを表わしたのはまことに効果的な引用と云えよう。
 作者は大正七年生れ。当時の青年のまぬがれ得ぬ運命として、昭和十六年入営、北支派遣、負傷、満州での終戦、二年間のシベリヤ抑留を経て帰国している。昭和五十六年、俳人協会理事として、初の日中友好使節団に選ばれて訪中したとき、戦死した友人への鎮魂の祈りと、中国の人々への贖罪の思いが大きく心を占めていたと思われる。が、やがて、訪中の機会が重なり、相互交流の機会が増すなかで、中国文化の奥深さ、とくに杜甫、李白といった詩人を輩出した〝唐詩のふるさと〟揚子江流域の景に大きく魅かれていった。
 こうした心理的経緯を背景に持つ彼の作品は所謂、通常云われるところの観光俳句とはおのずから軌を異にしているのは云うまでもない。
 このことは、作者の数年前から毎年訪れて詠みつづけている、東北「相馬野馬追」行事に対する姿勢にも共通している。日本の伝統を安易に観光化されることへの無念さが、作者を多作に馳り立てているのだろうが、俳人の意志表明は実作を通じてなさるべき、という決意のあらわれでもあろう。
 作者の師、大野林火は繊細幽玄な感性を、清新平明な表現力をもって詠ったが、後年、〝平凡〟のよろしさをしきりに説かれた。師に比べると作者の表現はやや〝訥弁〟気味だが、対象に向ける目の温かさはしっかりと受け継いでいる。

耄碌の戦友会のあたたかし

  戦後も五十年余、戦火のなかに生死を共にした者達も共に老いた。悲しくて笑いたくなる、笑いながら目が濡れてくる、その思いを作者は「あたたかし」と結んだ。絶妙の季語である。俳句における自己主張とはこういうものではなかろうかと思う。『虚子俳話』を真似て云うならば、その句の発するところが温かいのは、その人が温かいのであり、その句から受けとるものが誠実ならば、その人が誠実なのである。
 選考後、「句は人なり」という云い古されたような言葉を、新鮮な感動をもって、藤田、阿部両選考委員とともに頷いたのである。

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