著者 | 西村和子 | ||
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タイトル | いよいよ自在 | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 39回[2024年] |
分野 | 俳句部門 | 分類 | 選評 |
春眠の繊毛 戦 ぐ耳の奥
竹の葉の散るやもとよりめまひ癖
骨灰となりて黄砂にまぎるるも
もやもやと来る吹越のはじめかな
竜天に登るうろこかはなびらか
微小な体感を鋭敏な感覚でとらえた句から、自然界の気象、さらには空想上の季語まで、幅広い世界を自在に表現する正木ゆう子の魅力が存分に味わえた句集。
耳の奥のくすぐったさや目まいといった個人的な感触も、「春眠」「竹の葉散る」という季語との響き合いを得て、人体も自然界の一部であるという実感を共有することができる。「黄砂」は大陸の悠久の歴史を想わせ、「吹越」という山国特有の気象現象も、この句によって目のあたりにすることができるようだ。
竜は春分にして天に登り、秋分にして淵に潜むとされる。空想上の壮大な季語を、かくも美しく詠みあげたことにも感服した。
夏帽子ふたつ掛けあり生と死と
我こそはとみな生きて去る風の荻
癌ぐらゐなるわよと思ふ萩すすき
今ここに居なさいと冬泉鳴る
はるのつゆふれあふ鈴の音かとも
並べ掛けられた夏帽子に一見差違はないが、死者は二度と帽子をかぶることはない。生者のものは今日も日光と汗を吸う。本来明るいイメージの「夏帽子」を「生」と「死」の象徴として描き、互いを際立たせた手法は鮮やか。生と死を俯瞰した視点は「風の荻」の句にも見て取れる。
発病以後の作は、病を受け入れて冬の泉の寡黙な音に耳を傾け、幻聴にも似た春の露の音は、命のはかなさに共鳴するかのようだ。殊に、いとも軽く言いなしているかのような三句目の「萩すすき」と置かれた下五に、俳人魂を見る思いがするのは私だけだろうか。
深刻なばかりではない。
灯のおよぶ限りの雪へおやすみなさい
よい考へブルーフィッシュの如く散る
蕗ゆれてひとり遊びの狐の子
初期の頃からの純真で素直なメルヘンチックな持ち味は、今なお健在。読み手の心をほぐしてくれる。
最後に試みの一句。
どちらかといへば暗いからどちらかといへば明るいへと寒暁
ひと言で明暗を表現するのは簡単だが、微妙な明度の変化を丁寧に描写するとこうなる。一年で最も寒く、夜が長い寒中の明け方、「明け暗 れ」の数分間。ほんの短時間なのに大幅な字余りをもって表わした点に冒険と誠実が混在している。しかし季語は動かない。夏の明易 の頃では時の経過がゆるやかで、空の変化も大らかだ。この句に緊張感を与えているのが季語だ。
定型を逸脱していながら季語で締めているこの作は、読み手を立ち止まらせ、受容を迫る力がある。寒中の明け方、ふと目が覚めて足先が冷たくて眠れないような時、この句を思い出しそうだ。このことは、定型詩の一番の強みである暗誦性のあかしに他ならない。