佐々木幹郎「〈艸〉という生き物」

著者 佐々木幹郎
タイトル 「艸」という生き物
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 39回[2024年]
分野 詩部門 分類 選評

 素晴らしく力のこもった詩集である。詩集の最初は、中国や東南アジア各地を、言葉の意味がわからないまま、その音の響きに包まれて放浪するメモの群れ、というふうに読める。「ゆきがたしれず」と題した詩には、「どこにも着きたくはないこのまま普通慢車にゆられていたい/どういうのだろう/ことばと、/ゆれるひかりと、/ずっと途中でいたいのだ」とある。ここでの「普通慢車」は中国語で各駅停車のこと。現地の単語をそのまま取り入れて、「耐性はない主体もない言葉のみだりな運動に巻き込まれにいくだけだ」(「旅の作法」)とも言う。詩集はここから徐々に身体と言葉の深みへ読者を導いていく巧みな仕掛けになっている。
 どの土地でも作者は食欲旺盛で、地元民と同じように何でも美味しく食べる。しかし「うまいものを食べているとからだのどこかさみしくなる」(「アロイ」)。その「さみしさ」を追って、「わからないまま書いている。/まだなにものでもないもののふるえ。/ことばの無駄な動きこそがわたしなのか。」と問いかけ、「のどに詰まった聲には迷わず加担したい。」(「漫遊帖」)と言う。「躊躇いのない言葉は信じない」、「不如意を生きるしかないうまげに飯を喰う人にはかなわない」(「キリンの黒い舌」)。このあたりから、作者の固執しているテーマが浮かび上がってくる。
 松岡政則は初期の詩集から一貫して「艸」なるものに固執してきた。通りすがりの道ばたに目立たずに生えている植物である。「草」ではなく「艸」と記すことで、ただそこに生きていること、その大切さと存在感を、思想として示したいのだ。
 詩「艸のおしえ」に、「どこにも帰れないでいる喉と/行間の弛み、のようなもの/いる、としかいえないように存在すること」。それが作者にとっての「艸」である。今回の詩集は、そこから先の問題をえぐり取ろうとしている。「くぬぎあべまきうばめがし」に、次のように書かれている。「だからといって/艸のいいなりにはならない/(中略)/あるくという行為は/あらがうということだった/わたしはみんなではないただそのことだった」。そしてこの詩は最後に次のように終わる。「ぢべた、くちべた/ふったりやんだり隣るひと/いきているうちに善行のひとつもなしてみたい、ともおもわない」。
 わたしは最後の「ともおもわない」に衝撃を受けた。作者は「ぢべた」から立ち上がってくるもの、そして「くちべた」な作者自身を「艸」と同じ存在にしたいのである。自然界に降る「雨」にもそれを投影する。「しばらく放心して見惚れてしまうそれを、/ふる、とだけ呼ぼうか、/雨も見られることを知っているかのふうで、/どこに帰ればよいのかわからなくなるそれも、ふると呼んでしまおうか、」(「ふる、」)。読者はここで行方不明にさせられる。それが快い。最初に紹介した詩「ゆきがたしれず」に戻るのだ。

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