著者 | 松岡政則 | ||
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タイトル | ぢべたくちべた | ||
出版年月/出版社 | 2023年7月/思潮社 | 受賞回[年] | 39回[2024年] |
分野 | 詩部門 | 分類 | 作品 |
[略歴]
一九五五年、広島県生まれ。詩誌『凪』同人。「家」で新日本文学賞。詩集に『金田君の宝物』(H氏賞)、『艸の、息』、『現代詩文庫・松岡政則詩集』、『ぢべたくちべた』(日本詩人クラブ賞)など。
[受賞のことば]
詩は、事実を書くというものでもなく、むしろ分からないことをわからないまま書き始める、そういう文芸だと思います。事実は然して面白くないし、たった一つの真実に拘っているようでは、詩をやっている意味がありません。何かを言い尽くしてしまうより、矛盾や亀裂をこそ詩の中に持ち込みたいと考えています。
詩は倫理ではありませんが、どこか清潔でなければならないとも思うのです。一瞬であれまっとうな人間に戻してくれる、詩にはそういう作用があると信じています。選考委員の方々、関係者の皆様に、心より感謝申し上げます。
[作品抄出]
ゆきがたしれず
荷物を床に置いて
行商のオバサンは疲れきっている
からだの火照りがじかに伝わってくるかのようだ
みないふりでいる
ふるまいひとつで
なにかが台無しになることもある
車窓に原野がゆっくりながれ
ハリエンジュの並木がながれ
ガタンタン、ガタタンタン
冥銭を焚いて墓地で跪拝するひとらが現れる
どこにも着きたくはないこのまま普通慢車にゆられていたい
どういうのだろう
ことばと、
ゆれるひかりと、
ずっと途中でいたいのだ
鐵橋にさしかかる
大陸の夕やけ
のどにくる夕やけ
松花江を渡ると哈爾濱の街がたちあがる
ここにくるのはわかっていた、
生まれる前から決まっていた、
それだのに
どういうのだろう
哈爾濱はもういいと思った
あらかた知っている気がした
いっそこのまま
行方不知になろうか
艸のおしえ
どこにも帰れないでいる喉と
行間の弛み、のようなもの
いる、としかいえないように存在すること
こどものさびしみのような空
(五万日の日延べ)からも十数年経つ
ナナカマドの赤。イヌブナの黄。あか。き。
だからといってこのまますむものではない
孤絶があかるむことがある
艸にはそういう唆えがある
文字そのものの企みなのか
無学な喉のくらがりのことか
よくわからないまま繰り返し読む本がある
世阿弥の遠流を想う夕まぐれ
黙黙とテントを畳む露店行商人
おぐらさのなかにこそもののあわれがある
粗板がだらしなく積まれていた
悉くなにかのはずみだった気がする
悉くなにごとでもなかったような気もする
くぬぎあべまきうばめがし
ぢべた
くちべた
ぱらぱらとおちてきた
どこまでがわたしのもので
どこからがおやおやのびねつなのか
るいがおよばぬようにかいた聲にならない聲をかいた
だからといって
艸のいいなりにはならない
おんがくしつのすみできいたショパン
あれがはじめてふれたうつくしいもの
あれだけだったほかにいいことなんかなにもなかった
すみやきごやのあらむしろ
クヌギ、アベマキ、ウバメガシ
あるくという行為は
あらがうということだった
わたしはみんなではないただそのことだった
あかペンをいれる
直感はたいていあさい
ものがたりとはあいいれないもの
ことばそのもののめざめのようなもの
みんなでが苦痛だった似ていることがはずかしかった
どうせなにも解決しない
わたしの詩もなおらない
ぢべた、くちべた
ふったりやんだり隣るひと
いきているうちに善行のひとつもなしてみたい、ともおもわない
ふる、
なにごとかととのって、
雨になるのか、
段畑の石垣がぬれ、
真竹の一叢が撓みながらぬれ、
艸刈り機を担いで帰るおとこの姿がみえる、
農具小屋のトタン屋根を叩きつける大粒の雨、雨、
へだてなく雨に打たれているというのはよいものだろう、
ちがいなどなにほどのこともないよいものだろう、
たまばなの群れ咲きを経て、
おとこがかどをまがるじぶんにはもう、
いえいえのりんかくがうすくなり、
さみしらにただふるだけとなり、
ことごとくみなぬらしおえてぬかりがない、
雨はよこさまにもふり、
島嶼の無意識をぬらし、
うまずたゆまずふりつづけている、
因果も習いもしとどにぬれ、
ことばの偏りを潤し、
やがて半透明の、
ただ在るだけとなる清しいもの、
いいや在って無きような風姿となるうれしみ、
雨に集い来るものもあるようで、
ふっているのに静かに明るむという贅で、
しばらく放心して見惚れてしまうそれを、
ふる、とだけ呼ぼうか、
雨も見られることを知っているかのふうで、
どこに帰ればよいのかわからなくなるそれも、ふると呼んでしまおうか、
(掲載作選出・佐々木幹郎)