有馬朗人「『両神』を推す」

著者 有馬朗人
タイトル 『両神』を推す
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 11回[1996年]
分野 俳句部門 分類 選評

  三月五日神田の如水会館に、石原八束氏、川崎展宏氏、有馬朗人の三人が会し、日本詩歌文学館賞の俳句部門の選考を行った。候補として最後まで残った句集は、金子兜太氏の「両神」と森澄雄氏の「白小」であった。この二冊の句集を比較すると、「両神」の発展性、現代性に対して「白小」の完成性と伝統性が特徴である。そこで荒けずりの所があるが未来志向的なエネルギーを評価するか、落着いた完成度を評価するかが、議論の中心になった。
  例えば
  梅雨の家老女を赤松が照らす  「両神」
  少年二人と榠樝六個は偶然なり  〃
  と
  爺ケ岳蟲出しの雷ひびきけり  「白小」
  けふ果てて旅の途中や櫻鯛   「白小」
  を比べてみる。どちらも帯に印刷されている自選句の冒頭の二句である。「白小」の句は古格の完成度を示していて、句の意味もきちんとしている。それに対して「両神」の句は、表面的な意味は明瞭だが、何かありそうな気持を引き起すものがある。この茫洋たるところが兜太俳句の魅力と言えよう。
  三句目を比べてみる。
  酒止めようかどの本能と遊ぼうか  「両神」
  見渡してわが晩年の山櫻  「白小」
  偶然どちらも述懐の句であるが、これ又それぞれの個性をはっきり出している。「両神」は定型をしばしば破る。「白小」はきちっと定型を守る。前者は現代仮名遣い、後者はどこまでも歴史的仮名遣いである。更に言えば「両神」は笑いをこめているのに対し、「白小」はしみじみとした味がある。
  この優れた現代俳人の双璧のどちらかを選ばなければならない。そこで我々が達した結論は、「両神」の活力を買うということであった。あえて加えれば「白小」はやや沈潜し過ぎていると感じたのである。そこでどうしても一人を選ばざるを得ないのであれば、金子兜太氏ということになった。
  私自身は「両神」の明るさとユーモアに注目した。
  飴のような曲馬の少女夏の初め
  卯の花に曽良が剃りたてつむりかな
  長生きの朧のなかの眼玉かな
  などにある伸び〳〵としたヴァイタリティを佳しとする。
 「両神」にはヨーロッパや中国などの旅吟が納められている。そこにも佳句が多い。
  ときに耕馬を空に映して大地あり (モロッコ)
  トレド寒し小麦畑を白馬走り (スペイン)
  白木蓮の北京むらさきの上海 (中国)
  鸛鶴こうづる来て夏なり塩の湖遠白とおじろ (トルコ)
  森の村闘鶏場にしんと人 (バリ島)
  どの句もそれぞれの風土を良く出している。
  と同時に自分自身の故郷のことも忘れない。
  両神山は補陀落初日沈むところ
  語り継ぐ白狼のことわれら老いて
  によって句集を「両神」と名付けたのである。
 「両神」は読み物として面白いことも指摘しておきたい。金子兜太さんのますますの御活躍を心より祈っている。

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