高野ムツオ「言葉の復権」

著者 高野ムツオ
タイトル 言葉の復権
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 29回[2014年]
分野 俳句部門 分類 選評

  柿本多映の句には、生活感や風土性は希薄である。それでいて万象や人間そのものの確かな息づかいがはっきり感じられる。句の背後に、眼には見えないが、強固な現実世界の支えがあるのだ。氏の言葉は、抽象に向かうときでも、この世に存在している事象と自分とが、わかちがたく結びついた次元から発せられている。
  馬は馬であること知らず八月来
 たとえば、この句。まず自らが馬と一体にならなければ発見できない世界だ。ただ一個の生命として純粋かつ無心に存在している馬を前にしながら、では、果たして人間は人間であることを、本当に知っているかと自問しているのである。知っているなら、たぶん戦争の八月などという忌まわしい季節は存在しなかったはずだ。そうした自責をも重ねている。
 この世に存在していることを意識するとは、自らの生前や死後を表裏にすることでもある。氏は、実に自然に自由に、生前や死後の間を行き来し、同一化する。いや自分の死生だけに止まらない。森羅万象すべての死生に参入する。
  骨として我あり雁の渡るなり
 これは自らの死生と対峙している句。自分がそのまま骨であるとの認識は、死後を意識して初めて生じるもの。いずれは、今立っている土に還る。そう自覚したときに、天空はるかを雁が渡っていくのである。
  葛の花生者はこゑを嗄らしつつ
 この句になると、作者はもはや、この世の埒外にいるのではないかとさえ思われる。声なき声の死者が、声を嗄らす生者の背後に数知れず浮かび出てくる。
 しかし、氏の句は、シリアスな眼差しのみから生まれてくるのではない。ときには稚気たっぷりに、ときには老獪赴くまま、楽しげに時空を駆け巡る。
  饅頭にたねなどありて時雨れけり
  てふてふや産んだ覚えはあるけれど
  冬桜湯に浮く乳房あるにはある
  山姥は山に向かひておーいお茶
 氏は滋賀園城寺生まれ。仏教世界を身近にし、境内山中の生きとし生けるものと共に育ってきた。その出自が、こうした俳句の土台となっている。さらに赤尾兜子、橋閒石に虚と実をつなげる言葉の技を学んだという後ろ盾もあろう。しかし、何よりも、戦後の一女性として、命のありかを十七音を以てして照破しようとし続けた姿勢と表現の絶えざる錬磨が、現在の自在融通の境地へと至らしめたのではないか。
  なめくぢの光跡原子炉は点り
  起きよ影かの広島の石段の
  ひんがしに米を送りて虔めり
 俳諧に遊ぶこととは、つまるところは現実世界の真実を言葉でもって露わにすることである。これらの句は現在只今の世界を穿つ批評の楔でもあろう。今後とも柿本多映がその虚実遊泳の秘術をもって俳句世界の大魔女となり、更に未踏の世界を開拓されることを期待してやまない。

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