著者 | 友岡子郷 | ||
---|---|---|---|
タイトル | 寛裕の心ばえ | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 25回[2010年] |
分野 | 俳句部門 | 分類 | 選評 |
今回、受賞候補に選ばれた句集は、『風の吹くころ』(今井杏太
郎)『初東雲』(後藤比奈夫)、『小椿居』(星野麥丘人)、『月魄』(眞鍋呉夫)の四冊であった。それぞれに長い俳歴のなかで独自の個性、作風に至りついた人ばかりであった。
そのなかで、『小椿居』の星野麥丘人氏に衆目の一致したのは、従来の個性に更なる寛やかさ、自在さ、ういういしさが感じられたからである。
星野麥丘人氏は大正十四年生まれ。八十五歳。石田波郷、石塚友二に学び、「鶴」誌を主宰継承して二十四年になられた。
今回の句集『小椿居』を拝読して、先師波郷が主唱した俳句の韻文精神を遵守しつつも、自己の視点に立って融通無礙とも言える俳味を加えている。これは波郷や友二には見られなかった風趣ではあるまいか、と私には思われた。
木の実落つ待つことなにもなかりけり
自らに向かって呟くような寂しさがある。ところが、その次に、
山ン姥といふは木の実を蓄めをらむ
という一転した想念の句が現れる。この変転の妙、俳諧的だ。
ぎんなんはいただくものや待つてゐる
おやおやと思い、だれにもある心根を突いていると思う。
餅食べて妻は家出をするといふ
こんなおもしろい句にはめったに出会わない。「餅食べて」の飛躍、平俗にいて平俗をこえている。
儚々とふ枯野の人といふことか
大事ないことはそのまま蟇もまた
明日あたりどんぐり拾ふことせむか
世の中のことは春来てからのこと
花野にて生れ変れるものならば
集中にはこのようなモノローグふうの句が多い。日々折々の哀楽の念が、溜めた気息のように吐出されるのであろう。だが、このモノローグは個人の枠をこえて、多くの他者の心情と通じ合う点がある。ひとり言ではない。
扇置くわが人世もこの辺り
なにごともきのふのごとし忍冬忌
寒北斗齢いよいよ掛値なし
こうなるとかなり切実さが増すが、それとて心に余裕を残している。「扇置く」とか「掛値なし」とかの用語に、それがうかがえる。二句目の「忍冬忌」は十一月二十一日の波郷の忌日。つまり懐旧の思いである。
ツルゲーネフ読む父の日の牛飼よ
こんな青年が作ったようなういういしい着想の句もある。
この一集を読んで驚いたことがある。それは横文字(カタカナ書き)の人名が数多く詠み込まれていることだ。文学、音楽、絵画等々。著者は分野をこえて芸術への関心と素養を持つ人であろう。句の豊かさの素地である。