著者 | 三村純也 | ||
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タイトル | 太夫芸 | ||
出版年月/出版社 | - | 受賞回[年] | 38回[2023年] |
分野 | 俳句部門 | 分類 | 選評 |
能に太夫芸という言葉がある。言うまでもなく、太夫とは家元のことである。太夫には観客を魅了するような演技力、はっとするような技の切れなどは、特段、なくても構わない。ただ舞姿がひたすらに端正で、どこまでも品格が保たれていれば良しとされて来たのである。星野高士氏の俳句には、これに通じるものがあるように思う。『渾沌』に収められた句は内容も素材もさまざまではあるが、一貫しているのは、太夫芸に求められるものに近い上品さである。
ひとときといふ長さあり新茶酌む
初夢を見たくて枕新しく
さらさらと夕べが過ぎぬ新豆腐
田楽や会へば楽しき人ばかり
草餅や予定なき日も見る手帳
日常の何気ない一瞬、移り行く季節、人と会って集う俳人としての生活、そんな中に季題を見つけ、詩を掬い取ったこれらの句には、計らいが見えない。切り取り方の旨い下手以前に、高士氏の為人が見えてくる。それは虚子を曾祖父に、立子を祖母に持つ血筋によるところも大いにあるが、全てを鷹揚に受け止めようという、氏の姿勢そのものの端正さから来ているとも言えよう。
いちどきに夕べの来たる松手入
一天に奈落あるごと朴の花
風が消す二月礼者の小さき声
誰も居ぬ岐阜提灯の一間あり
虫売の虫の音痩せてゆくばかり
大きな景色の句は、力強い対象の把握、小さな素材の句には繊細な神経が働いている。さらに、
さくら鍋噓と知りつつ聞く話
全集に足りぬ一冊黴の宿
さ男鹿の一歩のあとは数十歩
など、人生の哀歓、普段の暮らしの中によくある些事ながら、一句にされると納得できて親しめる句、対象の凝視による写生の深みを感じさせる句など、その幅は太夫の芸域と同じように広い点も見逃せない。
しかし、能は再生芸術、俳句は新たなるものを創作してゆかなくてはならない。一集を通読して、もし瑕瑾を挙げるならば、対象の大摑みな把握、言葉の選択が、少し、大雑把なところはないかという一点である。星野高士氏だから、敢えて言おう。詩歌文学館賞受賞、洵におめでとう。が、この賞が貴兄にとって、到達点ではないはずである。能には偉大なる太夫にして、卓抜した技量を蓄えた名人もある。願わくは、星野氏もここに安住することなく、さらなる境地を開拓していただきたいと思う。
鈍色の空は似合はず花菖蒲
集中、私のもっとも好きなこの一句に、私は氏の未来の一端を見る思いがする。