米川千嘉子「記憶の小さな喜びと空漠」

著者 米川千嘉子
タイトル 記憶の小さな喜びと空漠
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 38回[2023年]
分野 短歌部門 分類 選評

    四十歳になりたるわが() と凧揚げす元日の空に凧あがりたり
    つつじの花ちぎりて花の蜜を吸ふわれはひよどり子あり妻なし
    亡き妻の老眼鏡を手にとればレンズはふかく曇りてゐたり
  第一首目がこのたびの第十一歌集『サーベルと燕』の巻頭歌である。四十歳の娘が凧をあげている。長い年月を隔てて凧だけが昔と同じように元日の空にあがっている。冷たく明るい空から、幼い娘と若い妻がいた時間も零れる。悲しみだけではなく少しの慰謝の輝きもある。二首目は作者流のユーモアがあるが、ここでも妻や幼い姉妹の気配が一瞬漂って消えるような印象を受ける。三首目では、取り返せない時間そのもののように眼鏡のレンズに独特の鈍く濃い曇りが現れたのだ。歌集はさまざまな時間を深々と仕舞って広く眩しく、また曇る。
    いつの日もきつく抱きしめをりたりしパンダのぬひぐるみを柩に
    入れつ
    骨壺にはんぶんもなき母の骨 骨の一片まで生き抜きたりし
  さらに歌集には、母や弟、友人たちとの別れも多く、喪失が連れてくるたくさんの風景がある。
    籠のカナリア逃してしまひしその日より六十余年がひらりと過ぎ
    つ
    ふるさとの山の隧道の入り口にいづみが湧きてゐたるかなしさ
    わが乗れる電車に手を振るこどもありわれ振りかへす昭和のごと
    く
  巡る記憶の小さな喜びと大きな空漠のなかに作者一人が立っているといえばよいだろうか。三首目では手を振っている作者がいつのまにか「こども」の側にいるような錯覚が起こる。これらの歌の時空は、令和の現実から切り離されているのはもちろん、昭和という過去の現実とも違うのだろう。シンプルにたしかに響くことばと様式が、堅牢なまぼろしの空間を保証する。
  一方、次のような歌はまさに令和のコロナ禍をうたった作品である。
    ミケランジェロ「ピエタ」の指にもウイルスはひめやかにして迫
    りつつあり
    両耳がここについててよかつたとマスクをつけるたびにおもへり
  サンピエトロ大聖堂のピエタ像。右手はキリストを抱え、左手はその身体に添いながら掌は上に向いている。そのあてどない悲母の「指」に迫るコロナウイルスがある。こわい歌だ。その一方にある二首目。「ここについててよかつた」のニュアンスが可笑しく、それぞれが小池光だ。
    谷川雁「毛沢東」の一行がおもひだされて冬の蜂あるく
    松葉牡丹の花をうたひて色彩のとびちる如し斎藤茂吉
  先のミケランジェロの「ピエタ」の歌ともども、作者は古今東西の歴史や文化芸術についての豊かな知識、そして斎藤茂吉への愛をずっと歌に潜ませてきた。典拠をもつ歌の展開の面白さも、小池光が第一歌集『バルサの翼』から鮮やかに切り開いてきた世界で、とくにここにあげた一首目のような歌の苦さが忘れがたい。

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