小池昌代「『雪塚』の魅力」

著者 小池昌代
タイトル 『雪塚』の魅力
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 38回[2023年]
分野 詩部門 分類 選評

  長く詩を読み、書いていても、詩の言葉がどこからどのようにやってくるのかについては、いまだに途方に暮れてしまう。その暮れ方は、齋藤恵美子『雪塚』において、尋常なものではなかった。わからない。意味が入ってこない。目で字を追う、そのときの目は、まさに穿たれた穴と化した。作品の内壁を伝い歩く。目が使えないのであるから、全身、むき身となって。禁欲的に辛抱強く。こんなふうに詩を読んだのは初めてだったかもしれない。そのとき私はもはや人間でなく、じわじわと滲み出る、地下水みたいなものになっていた気がする。
  詩は土の臭いを残して生々しく、そこへ差し込む光があり足音がある。やがて、古い記憶の層のようなところで、言葉が解けていく感触があり、そこまで来ると、読むことの苦も圧も、みな強いられたものでなく、自分と地続きの、むしろ懐かしいものになっていた。
  そらすような書き方をしていて、核心を隠すので、齋藤さんの詩は難解という印象を呼ぶ。しかしこれは、隠すこと・消すことが、この詩人にとっての逆転した記述方法になっているせいで、いわゆる頭脳的で難解な現代詩とは違う。とても身体的な詩だと思う。とっつきは悪いが、内側には温かい人肌の世界が広がっている。「シュラフ」という詩がある が、一編一編がシュラフ(寝袋)のようで、外側から読んでいるつもりが、いつのまにか、でんぐりがえし、作品の内にいる、作品に孕まれてしまっている。不思議ですね。
  行と行は流れず、ずれ、きしみ、積み重なる。「風化堆積土」や「葉化石」を読むと、時間の地層の荒々しい断面が見えてくる。一人の人間の生涯の時間が、人類の時間に合流したとも感じられた。個体としての命は終わっても終わらないものがある。それが『雪塚』を貫いている。親類縁者や血族がいる。「隊商」に出てきたのは兵士あるいは革職人。自閉的に見えるが、現実との接点は常にある。にぎやかな足音が聞こえてくるが、みな死者のもの。音はない。だが虚無には陥らない。存在のにぎやかさと言い換えようか。
  この詩集に、私は韻律を感じた。いわゆる定型詩ではないし散文的記述もある。しかしこれは韻律詩であると言ってみたい気がした。散文脈で書かれる詩の自在さは現代を圧倒しているが、そのなかに置くと、この『雪塚』は異端に見えるだろう。多出する「、」が、言葉を引き止めつつ先へ促す。苦心して創られた重いリズムだ。詩はどんなふうに書いてもいい。そう思う一方で、詩とは型式であり韻律であるという内なる声に、私は常に導かれてきた。
「合い鍵を、だが、渡すまいと/渡されまいと踏み堪え、……」という二行があった(「風化堆積土」)が、『雪塚』には重い鍵がかかっている。だがこの詩集を読む私は、透明な泥棒である。どこから入ったのか、気づくとなかにいて、それが怖いように快感だった。

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