齋藤恵美子『雪塚』(2022年10月/思潮社)

著者 齋藤恵美子
タイトル 雪塚
出版年月/出版社 2022年10月/思潮社 受賞回[年] 38回[2023年]
分野 詩部門 分類 作品

[略歴]
  一九六〇年、東京生まれ。聖心女子大学文学部卒。二十代後半より現代詩を書き始める。詩集に『緑豆』、『最後の椅子』(駿河梅花文学賞)、『ラジオと背中』(芸術選奨新人賞・地球賞)、『集光点』、『空閑風景』(高見順賞)など。

[受賞のことば]
  雪に覆われた塚ではなく、雪で作られた儚い塚――それを「雪塚」と呼んでみたら、背後に、風景が見えてきた。そこには、会うことの叶わなかった、懐かしい誰彼のまぼろしも居て、音のしない声を放って、名前を呼び合うこともできた。初めて目にする光のような、眩しさに包まれたいとおしい場所。そこは、これから、わたくしが見るはずの、死後の風景にどこか似ていた。
 言葉と向きあう独りの時間を、突き詰めるようにして生きてきたが、自由に、我が儘に、書き継いだ詩を、広い場所へ連れ出して下さった、選考委員の皆さまに、心より感謝申し上げます。

[作品抄出]

  風化堆積土

濃色インクで、写真帖から
抹消された源叔父の
ようやく探した手札版にも、搔き傷
のような痕があり
撮られた時、光の刃先が、束の間
風景に走ったような、一枚を夜、どうにか飾って
遺骨へ、手のひらを合わせたのだ
梱包された、親族写真の、あの日の
あれほどの消滅さえ、死と呼べぬなら
叔父の遺した、風景の残骸は
呪詛、なのか
古戦場で眺めた石碑へ、その場かぎりの蠟燭を立て
路面に、陥没を、嗅ぎ当てるたび
あかるい絶望で充塡する
そのような蒙昧を、人は、千年も、光と呼んだ

火を許す者、その足並みに、私を
支配する音があり
合い鍵を、だが、渡すまいと
渡されまいと踏み堪え、源叔父が、手で
自ら潰した、写真の顔へも手を合わせ
遠い、年月の隆起によって、押し上げられた断層から
単体のままの、小石を拾い、しゃがんで
フューケラの葉を摘んだ
 

  隊商

柱に、唐草の
投影を秘めている、異国の文字
太陽の対極で

取り囲むたび、違う男が
演台に立つ枢軸の、広場で
呼び名を、覚えきれず
短靴の痴れ者――そのように記憶した。
在来神、には(ぬか) ずかず
コーカサスの、面立ちもなく
上背のある、若輩兵士の、憂愁を帯びた顔を向け

日没前の仮小屋で、鋲打ちをする革職人
(影にも、光源があるのです)
軍帽に、手を入れたまま――

ジープの幅にひらいた道を、きのうは
隊商として、通り抜けた。
朝、張り詰めた、胸筋で、一度限りの石弓を引き
遠い喉から、卑近な耳へ
しゃがれた蛮声を汲みながら
風のように、手応えのない、
純白のくだものを運ぶ腕。半ダースの山羊。
軍鶏(しやも) の小屋。ジープが
倍速で引き返し――

エグリン基地から、大型機体で、明け方
編隊がやってくる
 

  木の部屋

犯した罪を、震える声で
扇のように広げてみせ、それを
吸い上げてくれる人の
横顔も、もう、暮れてしまった
赦されるための、ひとときの部屋。つまりは
永遠と同じ純度の、明るさを出て、みひらく人の
瞳をしばらく、見ることができない
旅の、誰かとの行間が、やはり、その罪の
発端、なのか、部屋には
二人で、入ってもよいのかと、尋ねる前に
背後から壁は裂け
砲台のある海辺に立っても、わずかな星さえ
頭上にはなく、屈めば、椅子にも
草にも紛れる、いまは、極小の、姿の人と
いちどは拒んだその夜を濡れながら
見えない小部屋の、残響に立っていた
壁に、染み込んだ過ちの数よりも、棄てられた過ちの
その数を拾い上げ、贖罪としての生、を選んで
死へと赴いた背中を思い
「彼は、ほんとうに、居るのですか」
恐る恐る、わたしは尋ね、疑心を、けれども
過ちとして、赦そうとする声には揺れず
手に導かれ、訪う土地の
別の、木の部屋にいまは来て、そこでも
まだ、頑なに、言の葉ばかりを
響かせるうち、そこが
木の部屋としてあるうちは
言葉も、赦されているのを知った
 

  葉化石

皿の上で、ふるえている
母から、取り出した、(わた) だという

行き場を失い、体温のまま
灯りに、曝された、母の、色
右手を握り、ふた言だけの、別れをせわしく
済ませた後の、隧道を抜け、いまは
(わた) さえ、ひかりに刻まれてうつくしい

ひと月ぶりに、陽を入れた角部屋の
濡れ縁に、並んで、座っていると
葉化石の絵葉書が
大陸を越え、一枚届く
 

  雪塚

生まれた家の跡に立つと
背中を押す陽射しがあって
踏みなさい
銀の音するひかりを刻んだ霜柱
地表を何度も、地名を何度も、塗り重ねて
街はできた
四ッ谷寺町一番地
思い出す雪の、白の遠さ
西念寺から、薄ら日を背に
もう写真にはうつせぬ路地を、駈け去ってゆく少年の
幼い靴音を見送って――

どんな(やま) しい一日さえも
暦の、残像に変えてしまう、西陽のせいで
踊り場までが、仰ぐと
あかるさで真っ白だった
(この窓を、木を、信じよう)
ヤブツバキの背後から、守られたまま、たった一つの
日付を、そっと、生きていくこと
母屋で真夏、一度だけ、拳を
振り上げた父の腕が
手にしたカメラの、視力を全部
寂しい仰角で使い切り
わたしには、けれども何処にも、振り捨てるような
故郷はなく

写真のあなたを、この世の視線で
眺めることなどもうできない、と反芻しながら
暗い仏間で、誰かに、審問されていた
そのような壺
骨より先に、埋葬されたそのひとの
灰に潰えた肉声を、背後の
靴音として聴いてしまう
(いつも、違う、霜柱へと、それは、賑やかに着地して)
それから、古木のハゼノキが、否定のための
ひと枝を撓って
(どこかに、ねじれた、階段があるだろう)
開け放した光の向こう
遠い、静寂を、眺めるように、いま来た細道を振りかえり
転籍のあと、たった一人で
潮踏坂と別れた冬の
灰と光に、いちどきに晒されて
一つの生誕がやってくる!
四ッ谷寺町一番地
立ち去った者は、一人もなく、あなたは
自分の舌の起源と、等価であるはずの土地の名を
執拗な鈴音で消し去って
幻であることを、ひっそりとやめる

ひとつしかない開き戸は
小さな雪塚へ通じていた


(掲載作選出・小池昌代)

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