和田悟朗「客観写生の道」

著者 和田悟朗
タイトル 客観写生の道
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 21回[2006年]
分野 俳句部門 分類 選評

  深見けん二氏の句集『日月』は、平成九年秋から十三年冬までの三百五十句から成る。深見氏の七十歳代後半の作であるという。高等学校
(旧制)のころより高浜虚子に師事して生涯の客観写生の道を歩み始めた。客観写生といっても、何を客観するのか、いかに写生するのか、つまり、何をいかにという点において、客観写生の道は多様になりうる。深見氏はこの点において広い幅をもって多彩に変化する。
    雨音や畳の上のきりぎりす
    海見えて太平洋やつばくらめ
  純粋に視覚と聴覚に依った把握である。主観が直接に表現に出ていないから「客観」ではあるが、「畳」と「きりぎりす」、「太平洋」と
「つばくらめ」という組み合わせに意外性の発見があり、対象の取捨に大きく主観が働いていて、「客観」の妙味といえる。
    枝々に重さ加はり夕桜
    真ん中の棒となりつつ滝落つる
  右の二句では、「重さ」や「棒」という表現に、客観だけでは出そうにない思考が述べられる。枝に加わる力学的な重さは、視覚だけから観察される形のことではない。また、滝の真ん中に現実には「棒」などはない。いずれもここでは主観的客観へとなっている。
    睡蓮の近くの紅はつまびらか
    光の矢折々飛ばし泉湧く
  これは「光」についての発見である。ただに光る現実を、光線として微細に捉え、また「矢」に喩える。深見氏は工学を専門とする道を歩まれた方で、そのことと直接の関係はないかもしれぬが、本質的に理系の人であり、したがって合理的だ。あえて直感による不可解な非合理を試みない。このことは詩人の性格として重要な一面であると思う。
    糸瓜忌や虚子に聞きたる子規のこと
    先生は大きなお方龍の玉
  深見氏は虚子の他に、山口青邨に師事した。深見氏は福島、青邨は岩手の出身で、青邨生前の東京での住居庭園の雑草園は現在、北上の詩歌文学館の傍らに移築されている。深見氏は殊の外師を重んじる方なので、右のような句が出来たのだろう。
  他に、『日月』の中に「われ」「わが」を含んだ句が多い。客観という立場から見て、「我」には自己の主張と自省の両面がありうるが、ここでは後者が多い。自戒といってもよく、深見氏の謙虚な姿勢がうかがえる。
  以上、句集全体を通じ、一律の波動があって粒のそろった格調の高さを感じる。客観写生の気持の良い典型であろう。現在、俳句の世界ではさまざまの傾向や方法が見られる中で、深見氏の『日月』は一つの基本を展示しているすぐれた作品集である。

カテゴリー