吉川宏志「言葉をずらし世界を更新する」

著者 吉川宏志
タイトル 言葉をずらし世界を更新する
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 37回[2022年]
分野 短歌部門 分類 選評

 志垣澄幸氏は、一九七七年の第一歌集『空壜のある風景』で短歌の世界に登場した。
  逆さまに振られし壜の乳液が底に還らむと幾筋も垂る
 などが代表的だが、身近にある物を、クローズアップ写真のように鮮明に描いた歌に大きな特徴があった。
 それ以後も、繊細で静かな美しさをもつ歌を作り続けてきた。しかし、中央から離れた場所で活動してきたためか、十分な評価を得ていたとは言い難い。今回、初めて大きな賞を手にされたことを、心から喜んでいる。
『鳥語降る』は第十四歌集であるが、身近な風景を、新鮮な表現によって視覚的に描き出す方法は健在であり、さらに深化しているように感じられる。
  ぎつしりと雲のつまりし夕空が水面に昏く映りてゐたり
  陽だるまのバスが街なかに入りきてやうやく車体の青とり戻す
 一首目は、雲がいくつも浮かんでいる空を「ぎつしりと雲のつまりし」と捉えたところがおもしろい。たくさんの雲が浮かんでいるなあ、とは感じるが、空を容器のように見て、雲が詰まっているとは、ふつう発想できないのである。二首目、夏の強い日射しの中だと、車の色は失われてしまう。誰もが見たことのある風景だが、このように短歌で表現されると、清新な驚きが生まれてくる。
 人間は、言葉によって世界を認識している。志垣氏の歌は、言葉を微妙にずらすことにより、常識に覆われる以前の世界を蘇らせる。そのため、志垣氏の歌を読むと、懐かしさも持ちつつ、みずみずしい光を帯びた風景が浮かび上がるのである。
  仁徳帝の御陵のかたちせるパンの切り口にバター濃く塗りこむ
 という歌も、選考会で話題になった。意外性の強い比喩が、独自のユーモアを生み出している。歌を作ることが、ほんとうに楽しいのだと思う。新しい表現を見つける喜びが、歌集全体からいきいきと伝わってくる。
  遠き日の軍歌のしらべ銭湯に浮かぶひとつの貌より洩るる
  森林火災撮りゐるヘリの影がまだ火のおよばざる森のうへゆく
 また志垣氏は、幼いころに敗戦を体験し、台湾から引き揚げ船で日本に帰還した。そのときに心に刻まれた、世界に対する不安は、戦争や自然破壊を危惧する歌につながっている。声高な批判ではないが、動じることのない確かな視線が歌の中にある。
 奥行きの豊かな歌集である。これを機に、若い世代からも志垣氏の歌を論じる人々が出てくることを願ってやまない。
 最後に個人的なことだが、志垣氏は私の出身地の宮崎県の大先輩である。私が短歌を始めるきっかけを作ってくださったのも志垣氏であった。深い感謝の意を込めて、御受賞をお祝いしたい。

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