金子兜太「現代の俳諧」

著者 金子兜太
タイトル 現代の俳諧
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 6回[1991年]
分野 俳句部門 分類 選評

  受賞句集『泥ん』は、当年九十歳の耆宿永田耕衣の第十二句集で、耕衣俳界の成熟を示し、現俳壇に異彩を放っている。集中の作に、
  大晩春泥ん泥泥どろ泥ん
があり、耕衣自身、《泥ん》とは《急に姿をくらますこと》だと『大阪ことば事典』を引用して説明している。そして、書く。《近時《泥》なる可視物質の実在ぶりを、カオス即存在の根源と拈弄観念して怠らぬ私感の《泥》一字を、的的に代用して恥じぬ妙体としたのが《泥ん》であるにすぎない。》――耕衣の思想を日常風にいいかえれば、《高邁》などというものは人間の《身びいき》であって、それに対して《卑俗》の極致のような《泥ん泥泥どろ泥ん》の《泥》こそが、《即原始的カオスの絶景》ということなのである。晩春の天地、まさに《泥》にふさわしき時空と謳歌しているのだ。
  また、最後に次の句が置かれている。
  雪景や老松途中如如途中
  耕衣は《禅的俗語》なる《途中善為とちゆうぜんい》の四字を愛語として享受して止まない。《道中くれぐれも大事にな》の意と解して、それを《師》なる《歳月》が呼びとめ振向かせてくれる言葉と受けとっているのである。さすがの耕衣も最近では、《衰退のエネルギー》を十分すぎるほど感じているらしく、それだけに《歳月》が、自分の弟子である《泥ん自娯の》《野老》に呼びかけてくれる言葉が嬉しいのだ。《私は萬涙を注ぐのだ。「先生ありがとう」と。》――そこで句が生れた。《老松》なる自らに《如如によによ》たれといいきかせ、雪景を賞美しながら、歳月のもとなる道中を行く。いま行きつつありますぞ。
  これをしも耕衣流実存の思想とすれば、禅の教理がふかく影をおとしていることが承知できよう。野狐禅などという者もいるが、自己内面に執して、内面宇宙を造りあげようとしている者に向っての適言とはいえない。そしていま、百歳近くまで歳月を歩いてきて、自らの《泥》に立ち、歳月を師として、《如如》たらんとしている。実存深耕の態に成熟を見る、といい得ようか。
  俳句は成熟への道程を助勢し、いまは観念にまで成熟した思想を書き出しつつ、不思議な硬質な響きの韻律を伝えてくれる。まぎれもなく韻文の喜びとまでおもう。
  その響きは、禅語と季語の多用、禅問答のもじり、あるいはそれが気息の活用を主として生み出されている。滑稽の原意を「反常識」とすれば、耕衣俳句の滑稽指向はしぶとく、禅問答風の意外性、思考の直観的飛躍はなかなかのものなのである。そして当然のように諧謔をほしいままにし、野卑、尾籠をいとうことはない。かの俳諧の連歌の風化に向って「詩」の回復をはかった松尾芭蕉の〈本格的営為〉の系脈を、永田耕衣にも見る、といっても言いすぎではあるまい。
  句集『泥ん』が提示している世界は、耕衣独特の観念の表出と俳諧。その現代的形姿。

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