福間健二「不可避性を引きよせる」

著者 福間健二
タイトル 「不可避性を引きよせる」
出版年月/出版社 - 受賞回[年] 36回[2021年]
分野 詩部門 分類 選評

 森本孝徳の作品は、こんな詩はいままでなかったというだけでなく、そのとんでもなさに日本語についての発見、もしくは忘れられてきたことへの気づきがあり、それを本人が楽しんでいるのが伝わってくる。当たり前かもしれないが、ただメチャクチャやるのではなく、コントロールがはたらいている。読者への通路を思っているからだ。いわゆる読解や解釈へと誘うのではない。やっている実験が人のなにかを動かす「きっかけ」となることへのナイーヴな期待が壊れずにあるのだ。
 第一詩集『零余子回報』から今回の受賞となった『暮しの降霊』へ。変化を方向としてとらえるのはむずかしいが、あえて言えば、その楽しみ方から立ちのぼるユーモアが、未知の領域と時代的気分の両方に出会う「重層性」の足場を落ち着かせてきたと思う。「すっからかん。きみ(ゆるみ)とは揃って鼠蹊を蚊にさされて、おかしなところまでまだらに暮れ。(これは備忘となぐさみの筒)」(「枯葉の寝床」)といった表現の、ある意味での平易さは、私的なことを記録するとともに時代のなかの共有したい感覚を確認するものだ。さらに、いまの若い詩人たちの作品だけでなく、古くから一部の詩が逃げ込んできた自己韜晦的なユーモアが見えないこともない。
 しかし、『暮しの降霊』の全体は、そう単純には、私たちの詩の「いつか来た道」に接続できるものではない。「人から遠く離れた場所で、人との共棲をもはや無用とした言葉同士は、どうして人の想い出を騙りえるだろうか」と帯にあるが、これはこの詩集にある「わからなさ」を、いわば先まわりして、当てずっぽう的印象批評から防御しているだろう。秘密の多い詩集であり、「降霊」とはどういうことかをはじめとして、こうだと納得させるネジが外されている。読むべきは、ルビやカッコの使い方や図形的な配置も含めて、ここにおこっている、どこかファルス的な、言葉と言葉の関係である。
 使われている〇、△、□については、発話者を示す記号としてとらえる見方が有力だが、詩人自身が岡本啓とのネット配信トークで泉鏡花の『春昼後刻』でのその使い方から持ってきたことを明言している。ただの指示記号以上の意味があるということになりそうだ。
 意味を通じさせたいところと通じなくていいとするところが絡みあうのは、むしろ詩表現一般の特徴だが、森本孝徳の場合は、その絡みあいが独特に、日本語の古い層、そしてその奥にある「幽霊」までを呼びおこして、もう一段階、還元的に理解するのを阻む運動を生みだす。そのウルトラな喚起へと中継する要素として、私小説と俳句から受けとったものや一種の道化性が漂うようにある。
「文反故による貼雑ぜ自伝」。なぜそうなのか。そうでなくてはならないという不可避性を、作為と恣意性の上に引きよせている。強引な言い方を許してもらえば、そのための無意識を「創造」しているのだ。

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