武川忠一「『風の曼陀羅』について」

著者 武川忠一
タイトル 『風の曼陀羅』について
出版年月/出版社 受賞回[年] 7回[1992年]
分野 短歌 分類 選評

 『風の曼陀羅』は作者の第九歌集。選考委員はひとしく、前歌集に更に加わった自在さ――安らかに言葉を昇華させつつ、作品空間の醸しだす豊かさと深さについて言及した。
  吹きしまく砂塵にまなこ閉ぢをればめくれてゆけり野原一枚
  こういう何げなく見せる幻視の世界は、幻視とか想像力とかを読者に感じさせないような、自然で鮮やかな形象化をともない、思わず読者はどきっとする。はやくからこの作者の特徴であり、まさに生得のものに違いない。それが、一そう何げなく、目立つことなく果されている作が多い。
  どのやうに立つ牛ならむ立つときを忘れしさまに反芻にれかみやまず
  むじな偏の貌といふ字を書きをれば人間といふ不可解のもの
  読者はこの立つことを忘れたように、反芻にれかむ牛の、立ちあがるときの姿を、作者とともに共有しながら、生きものの、生きることの、不思議な世界へ誘いこまれる。「むじな偏の」の作も、奇妙な笑いさえともないながら、不気味な人間という生物の在りようが、貌に他ならぬことに、作者とともに今さら気づかされる。作品の内実にあるものは怖ろしいような生きものという存在であり、人間という怪物でさえあり、この集の加えた世界だ。
  花びらとなりてこぼれつ賜ひたる冬の桜を夜の灯にけば
  大き臼売れし手拍子遠巻きの子らにも分かつ幸せはあれ
  孤独で病む日常にいて、こういう作もある。初期作品の実生活のドラマと作品の造型したドラマの重層は拭われ、花へ寄せる華やぎや、あどけない者への思いは、祈りのようにふくよかだ。内実は単数ではないが、豊熟の季を迎えた、表現の安らかさがある。
  合はせたるグラスの音のかそかにてこの世を去らむ順など知れず
  道化師の仮装のままに行く人を怪しまぬまで世紀は熟れぬ
  一首目の、何げない日常の一こまの奥に、研ぎ出された死と生。不可知を不可知としてなど一切表だてずに、きっかりと結ぶ世界は、作者の見抜いている、冷静な知的な思索と、感性の所産だ。二首目は従来必ずしもこの作者に多いとはいえない時代そのものをとりこんだ一首。
  かつて作者は「世にいわれる歌の命運などは一度も考えなかった」
「歌を作り続けることができれば足りた」(『大西民子全歌集』巻末記)と書いている。このように断じ得る作歌への芯熱は相当のものだ。また『風の曼陀羅』後記に、「自分らしい歌を丁寧に、とだけ努めて来たように思います」と、洩らすように書きとどめている。作を貫ぬく姿勢の低い真摯な豊かさを改めて思うのである。こういう芯熱は育った地の風土とかかわりがあろう。作者は岩手県出身、選考には一切無関係だったが、この偶然も合わせて喜びとしたい。