小高賢「筋道の通った歌」

著者 小高 賢
タイトル 筋道の通った歌
出版年月/出版社 受賞回[年] 25回[2010年]
分野 短歌 分類 選評

  口当たりがよくなった現代短歌のなかで、田井安曇さんの作品は晦渋の方かもしれない。しかし、短歌でなくてはいえないぎりぎりの思いが、生き方とセットとなっていつも響いてくる。
  戦後の土屋文明に深い影響を受け、下町の公立中学教師をつとめながら、近藤芳美「未来」で活動した経歴。地域や仕事を通しての政治社会運動の実践。そのなかで文学としての短歌はどうあるべきなのかをつねに問うてきた。それは今度の歌集でも貫かれている。
    詩人は天皇にゆくことなしと眉上げておお飯島耕一書きぬ
    幻想をわれら生きたりしのみなりや〈戦中〉永く〈戦後〉短し
    たまたま平和なる時に教師たりし奇蹟を科のごとくに思う
    罪ふかきアメリカという帝国のありようにまた見ぬふりをする
  運命のように選んでしまった歌人という生。時代と抗いつつ、筋道をどのようにしたら通せるか。まるでひとつひとつ確認を迫るような作品は、読み手に考えることを強いる。もちろん、田井自身の悔恨もそこに付随している。一首目の「おお」は自己への鞭でもあるだろう。四首目の認識なども田井安曇らしい。
  また、『千年紀地上』には多くの死者が登場する。私たちの知っている人もいるし、どういう人物かわからない名前も登場する。どう読まれるかより、自分がどう思っているかが優先されるからだ。つまり戦後をともにした者への追悼は、みずからへの仮借なき追及でもあるのだ。戦後アララギの精神や戦後文学の志が、いまだ田井のなかに脈々と生き続けている証左でもある。
  年齢がそうさせるのだろうが、郷里へのなつかしさも目に付く。
    山がわのみなぎらい平らに押してゆくこの村も学徒動員にて来ぬ
    雁田山見えその下に小布施見ゆ千曲距て父死にし病院も見ゆ
    この河の下流に育ちこの川を母と称びたる校歌歌いき
    昭和二十一年北信濃に強き磁場働き歌詠む青年に吾を結びき
  身体全体が自然に感応している。感傷性を帯びたこのような作品はかぎりなくやさしい。戦争が、戦後の生活が、あるいは父母が遠望される。幼いころの友人、ともに論じ、語った文学仲間の顔も脳裏をかすめるのだろう。
  回想もともなったこういう思いと、先に述べた時代や社会に対する対峙がひとつになっているところが、『千年紀地上』のゆたかさではないだろうか。
  今回の歌集は、一九九九年から二〇〇一年までの三年間の作品である。時代の変貌に比して、刊行がやや遅れている。これをきっかけに、近年の作品をまとめてほしいものである。
  いままで、田井さんはあまり賞に恵まれなかった。それは現代歌壇のありようを示していないだろうか。
  ともあれ、戦後短歌を継承する歌人の近年の実りをともによろこびたい。