田谷鋭「『翔影』の世界」

著者 田谷 鋭
タイトル 『翔影』の世界
出版年月/出版社 受賞回[年] 12回[1997年]
分野 短歌 分類 選評

  みずからの意志のごとくに身の細り
    思惟菩薩とぞなりましにける
 「思惟菩薩」とあり傍題に「――妻の母、目しい耳しう」とあるので事情がわかる。一人の身近な人物を見る目が通常より特殊で、そのことにまず心打たれる。「みずからの意志のごとく」とは何だろう。老境に見せる姿が、はじめから、その人物が庶幾していたもののようだ、というのも、どこかの即身仏の心を推しはかるに似ているが、この表現が、その人物の平素を逆に浮き上らせる。どこかつつましく、そして一すじ芯のある生き方を通してきた人ではなかったか。
  一連中に「手毬唄うたいつづける村の道童女となりて遊びいまさん」もある。その人と共に野辺へと出てみたのか、もしくは伝聞からの想像か、平俗な感傷から離れて、むしろ自在な、至り着いた(それはこの場合、「病む」ことと同義だが)姿を描き出している。ここから放射するものはたとえば良寛の思想などに似たものと言えよう。ふかぶかと迫る作者の心が見えてくる。
  くれないのままの花首べったりと椿落ちたり
    落ちてかがやく
  椿を人間のように見ている。比喩ではなく、コトバそのものの材質感から、感触を呼びおこす手法と言えよう。どこか説経ぶしのような世界がほの見えるが、空虚さへおもむきはしない。目を離せば作者の心はまた別のものへと移り変るだろう。折々の心でものを見るまなざしが作者の場合、入念で、たやすく移ろうことはないが、いわば、心の色で対象を染めてゆく在り方がやはり特殊だと言えるだろう。
  大き波くだけもみ合うそのさきの
    流沙のごとき歳月があり
 「海潮」と題する連作の中から。「起きあがり寄するうしおのうすみどり澄み透るなり伸びあがりつつ」から始まり、叮寧な写実を重ねて、右のような作品が現われてくる。下句の意は何だろう。眼前の波から、波にもまれるような過去へとゆく思いがあったのか。いや、きっとそうだろう。そして波のはてのこと。海や湖などの存在の変動のかたちの中に砂漠のようなかたちもある。作者の意識はそこまで飛ぶのだろう。この飛躍は、或いは作者だけのものかも知れないが、当然のように作者はそれを歌う。なぜだろう。作者の心が、つねに終末の姿を求めているためか、その点はわからぬが、世に立ち混りながら、ふと孤の世界をかいま見せる作者の印象から、その内心のかたちがおぼろに浮かび、想像をかき立てる。
  父のよわい越えて近づく古稀の日か
    賜わる蘭のうすき花びら
 「もういいよ」と老木の花のくれない
    呼ばれて確かにもういいようつし
  ほっとする歌の中にも、どこか冷めたい予兆があり、老木の花は、ともに世を終ろうと呼びかける。現代の歌の中に『翔影』の作者は一つの屹立を見せている。