渋沢孝輔「今日的でイロニックな哀愁」

著者 渋沢孝輔
タイトル 今日的でイロニックな哀愁
出版年月/出版社 受賞回[年] 9回[1994年]
分野 分類

  いまは辻征夫の時代なのだそうである。賞の選考委員というものは、すでに耳に届いている世評や世の流行などには、故意にでも逆らって〈独自の見識〉を誇示したくなるものだし、現に今回も世評など気にしたわけではまったくないけれども、ただ『河口眺望』の場合には、読んでいて、語法からしても内容からしても、なるほどいまの時代を代表するに足るな、と思ったことも事実である。
  詩は時代に先駆けるもの、というかつてはかなり現実性を持っていたラディカルな考え方からすれば、単に当代を体現しているだけでは物足りない。しかし、多少とも実質をともなったラディカリスムのたぐいが、すっかり影をひそめてしまったのが、まさしくいまの時代なのだろう。『河口眺望』がいやおうなく目立ち、心を打つのは、そういう時代の「悲哀」をこそ歌っているからである。辻征夫の詩は、日常的な生活場面の出来事を、きわめて軽妙平明な言葉で、しかも天性の詩人たることを納得させられずにはいないような、思いがけぬ角度から歌うところに特徴があるが、見かけ以上に内実は過激なのかもしれない。「悲哀」とか「悲しみ」というような言葉を集中に何度も使いながら、ぴったりはまっていると感じさせる詩人など、めったにいるものではない。
  選考委員の一人清岡卓行氏が、ジャック・プレヴェールのような詩人、という感想を洩らしていたが、私もそう思う。諷刺の辛辣さや大がかりな言葉遊び、自由への希求の激しさなどにおいてはプレヴェールに一歩をゆずるとしても、資質においてはたしかによく似ている。日本的特質でもあるのか、はるかに慎ましく、低声のプレヴェール。たとえば「雨」。虻みたいな妖精がときたま耳たぶにきてとまり、いまなにをしているの?  と訊ねるのに対して、雨を見ていると答える。雨の見方を説いたのちの終行。「(むずかしいのね  ずいぶん)/何気ないことはなんだってむずかしいさ/虻にはわからないだろうけれど/(妖精よあなたの/雨の/ひとつぶくらいのわたしですけど)」。
  またたとえば「地下鉄」。ホームへの階段でキスしかけていた若い二人に出会い、女と眼があってしまう。微醺を帯びていた「ぼく」が手を振ると、女もちいさく手を振る。「さようなら/会うは別れのはじめって/こういうことだね/ぼくはこれから/地下鉄へ/きみは男の唇へ/それから未知の/それぞれの人生の/果てへ」。こういう締めくくりの気味合がなんとも絶妙なのだが、さらに、ほんとうはぼんやりした職でいたかったのに出世してしまい、「とりあえず来月から/部長をやってもらうが/希望だけは捨てるなよ」と社長に言われる「夢は焚火の丸太に」。その詩の最後で主人公は、オフィスの窓から見える雲に夢を託すが、同じような形で雲を歌いながらも、ボードレールの高揚も萩原朔太郎の悲愴さもない、醒めてイロニックな哀愁が、辻征夫の詩の今日的である所以である。