入沢康夫「奔騰する詩魂」

著者 入沢康夫
タイトル 奔騰する詩魂
出版年月/出版社 受賞回[年] 6回[1991年]
分野 分類 選評

  ここ何年か、あるいはすでに十何年ぐらゐになるだらうか、日本現代詩の停滞をうんぬんする言説がちらほらしてゐる。従来活発な創作活動を示し、未踏の領域でそれぞれのポエジーを展開しつづけて来た実力ある詩人たちは、今、どちらかと言へば、獲得した領域の内部をととのへ、しつかりと固める作業の方に力点を移してゐるやうに――大勢としてはさうであるやうに、――私などにも見えるのである。このことの結果、さうした詩人たちの最近の作品は、ほぼおしなべて、かなりに見事な仕上りと内容のわかり易さ・ちかづき易さ(の印象)とを、共通の特色としてそなへ持つてゐる。たとへて言へば、端正で、親しみのある、目鼻立ちのはつきりした作品群である。
  これは、つまりは、各人がそれぞれなりの《完成》に向かひ、それをむしろ競ひあつてゐるといふ事態であつて、確かにそのこと自体は、一般論としては好ましく慶ばしい話ともいへようし、また実際、思はず唸つてしまふほどのすぐれた《芸》に接する幸せに恵まれる機会は、近来少なくないのだけれども、だからといつて、すべてそのまま手放しに喜んでしまへない所に、《現代詩》が《その成立の根源に抱へ込んだ》難問が居据つてゐるのだと言はざるを得ない。それは、《詩とは完成からの永遠の逃走である》といふアポリアであり、また、少なくとも近代・現代においては《詩は絶対探究の武器、手段でなければならぬ》といふテーゼである。(「今だにそんなこと信じてるのか」と笑ふ人は笑へばよい。その人は、つひに詩と無縁なのだ。)
  今回、受賞の決まつた吉増氏の『螺旋歌』は、上に述べたやうな現状において、実に貴重な詩的営為と、私たちは痛感した。これは《いかにも詩らしく、お行儀よく、うまくまとまつた》作品ではない。その逆に、自分の詩のワクを、そしてジャンルとしての詩のワクさへも書き破り、踏みしだかうとする、恐ろしいエネルギーの発露である。はたしてこれが詩であらうかと、気の弱い読者には怯えられかねない独特の行文のあちこちから、ただならぬ他界の(この世界のナマな)気配がしきりに立ち昇るのを見逃しては、この詩集を読んだことにはならない。ここでは、作品の形の上での《完成》などには目もくれられず、その《世界の総毛立つほどナマナマしい気配との感応・交流》に、ひたすら焦点がしぼりこまれてゐる。一歩間違へば宙空にタタラを踏み、首の骨を折りかねないこの荒技を、吉増氏はみごとに演じ切つた。
  詩歌文学館賞は、すでに十分な厚みのある詩的営為を重ねながら、それに安んぜず、さらに新たな境地に敢然と歩を進めた詩人の仕事に与へられるのこそ、最も好ましい。これは、口に出して確認しあつた訳ではないが、私たち三人の選考委員の共通の思ひだつた。今度交代する三人の新選考委員に、この気持ちを引き継いで頂ければ幸甚である。